新橋というと、明治以降に華やかな料亭街が形成され、数多くの芸者や芸人が集った街として知られている。銀座や有楽町にもほど近く、明治末から昭和初期にかけては、江戸期からつづく大川端の柳橋Click!と覇を競う花柳界として、大きく賑わっていった。新橋が急速に発展したのは、1872年(明治5)に日本初の鉄道が開通し、「新橋ステンション」がオープンしたからだ。
 わたしは、新橋界隈にはまったく馴染みがない。いや、仕事ではしょっちゅう訪れるし、現在の街並みも知っているし、また知識としての歴史もそこそこ知ってはいるのだけれど、訪れると息が抜ける地域としての、昔馴染みの感覚がゼロなのだ。これは親父も同様だったようで、新橋について聞いたのは親父が生きた戦前戦後の同時代のことであって、江戸期からの伝承や物語はほとんど聞かされていない。これは、銀座の記事Click!でも書いたことがあるが、日本橋・神田側と銀座・新橋側とでは、同じ下町Click!といっても神田明神Click!と日枝権現とで氏子町が異なるからだろう。各種の地付き連中や講中Click!、仲間意識と同様に、江戸東京にはもうひとつ別の、街(旧江戸市街)を大きく2つに分ける、目には見えない区分が存在している。
 おそらく、それに案外忠実だった親父は、日枝権現の氏子町域よりも神田明神の同域を、より多く連れ歩いてくれたのだ・・・と、いまになって気づいている。親父とともに、柳橋の料亭Click!や料理屋には出かけたことがあるけれど、新橋界隈にはまったく立ち寄った憶えがない。これは明治になってから、新橋の華町は明治政府の役人のご用達、柳橋は地付きの江戸東京人のご用達という、どこか反発めいた昔からの気概や街のアイデンティティも、大いに含まれていたからにちがいない。幕臣だった小林清親が、「この、明治野郎っ!」と叫ぶのと同様の感覚だろう。
 
 さて、その小林清親Click!が1877年(明治10)ごろに描いた“光線画”、『新橋ステンション』が以前から気になっていたわたしは、汐留に復元された新橋停車場を観に出かけた。もともとの駅舎デザインに近い建物が復元され、内部には鉄道博物館が開設されている。汐留界隈の発掘調査で出土した鉄道関連の遺物や、「新橋ステンション」とプラットホームの地下土台部分が発掘されたそのままの状態で展示されている。細かな石組みをていねいに重ねた、いかにも頑丈そうな明治の仕事なのだけれど、再現された停車場は整いすぎていて、いまひとつ味わいがない。
 往年の「新橋ステンション」は、米国の建築家ブリジェンスが設計し、建物の石材には白黒まだらの凝灰岩が大量に使われていたらしい。確かに、明治期の写真を見ると、そのまだらな壁面に独特な味わいのある駅舎だ。汐留界隈は埋立地(熊野藩脇坂家と仙台藩伊達家の屋敷跡)なので、のちに造られる東京駅と同様にフワフワと上下移動をする可能性があったため、駅舎の基礎には耐水性のある松の杭が約1,000本ほど、30~50cm間隔で深く打ち込まれていた。駅舎は幅が34m、奥行きが20.8m、プラットホームは幅が9.1mで長さが151.5mと、清親の“光線画”から想像していたよりもかなりでかい規模だ。現在の復元駅舎は、オフィスや展覧会場にも使えるようにと、「新橋ステンション」に似ているビルを建てた・・・といったほうが正確だろうか。
 
 陸蒸気(おかじょうき)が桜木町(横浜)へと向かう「新橋ステンション」では、さまざまなドラマや物語が生まれただろう。近くには花柳界やハイカラなショッピング街の銀座を抱え、明治も末ごろになると“高等演芸場”の触れこみで「有楽座」がオープンし、東京じゅうから人を集めるようになった。この劇場で上演される芝居や買い物、茶屋遊びなどをめあてに、新橋界隈は空前の賑わいを見せたことだろう。有楽座では、自由劇場(市川左団次)、土曜劇場(俳優養成所)、新時代劇協会(井上正夫)など、当時のおもな新劇の劇団がつぎつぎと興行している。新派に登場する新内のふたり「鶴八鶴次郎」もまた、この時期に有楽座で数多くの舞台をこなしている・・・といっても、これは川口松太郎がこしらえた物語『鶴八鶴次郎』(1935年・昭和10)の中でのお話。
 新派が「鶴八鶴次郎」を初演したのは、そろそろ日本の敗色が漂いはじめた1943年(昭和18)のことだ。「撃チテシ止マム!」の軍国調一色の中で、よくこのような新内節の流れる恋愛芝居が興行できたものだと、親父ならずとも不思議に思ってしまう。初代・水谷八重子の鶴八と、花柳章太郎の鶴次郎は大当たりをとり、娯楽に飢えていた人たちの心をつかのま癒した。しょっちゅう芸のことでケンカをする鶴八と鶴次郎の新内コンビだが、ほんとうはお互いに深く愛し合っている。でも、ダンナと縁を切ることができない鶴八を思いやって、鶴次郎は鶴八に無法ないいがかりをつけて無理やり別れる・・・という、相変わらず新派お得意の悲恋物語だ。この芝居で描かれる、有楽座の舞台や界隈の情景が、往年の新橋の華やいだ賑わいを想像させてくれる。
 
 細竿の物哀しい新内にのせて、遠くで少しずつ消えさる汽笛の音色が混じったりすると、けっこう「文明開化」に江戸のサウンドは似合ってたんじゃないかと想像したりする。でも、「鶴八鶴次郎」は大正中期の物語。「新橋ステンション」は、すでに役目を終えて貨物駅となっていた時代だ。そして、有楽座も「新橋ステンション」も、1923年(大正12)の関東大震災Click!で炎上してしまう。

■写真上:左は、復元された「新橋ステンション」。右は、明治中期の同停車場。
■写真中上:左は、復元されたプラットフォームと線路。右は、出土した新橋停車場の基礎。
■写真中下:左は、1877年(明治10)ごろ制作の小林清親『新橋ステンション』。右は、1871年(明治4)に撮られた完成直後の「新橋ステンション」。正面1階にはエントランスホールがあり、右手のウィング1階が「上等待合所」、左手の1階が「中・下等待合所」で、2階は駅の事務室だった。
■写真下:左は、明治末に完成した新劇の殿堂「有楽座」。右は、新派で人気の舞台「鶴八鶴次郎」で、鶴八は初代・水谷八重子、鶴次郎は花柳章太郎だ。