先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」というドキュメンタリー番組で、めずらしく宮武外骨Click!が取り上げられていた。明治期から戦後にかけ、徹底して権力にタテをつきつづけた、彼の88年にわたる長い生涯を紹介した番組だった。その直後、わたしは遅ればせながら木本至・著の分厚い『評伝・宮武外骨』(社会思想社/1984年)を図書館から借りてきて読んでいる。この人物については、姻戚であるにもかかわらず(姻戚だからなのか)、ほとんど調べてはこなかったのだ。
 明治期の薩長土肥藩閥政府による「大日本帝国」の成立から、そのなれの果てである軍国主義の「亡国日本」にいたるまでの言論弾圧に、ありとあらゆる出版表現を通じて抵抗しつづけ、投獄されること4回、逮捕は30回以上におよんだその生涯は、戦後にGHQの検閲による“頁削除”弾圧というオマケまでがついていた。ちょうど番組が放映されていたとき、たまたま義母が国立Click!から遊びに来ていたので、さっそく取材させてもらった。宮武外骨は、連れ合いの母親の大伯父にあたる人物だ。そして、義母は1941年(昭和16)に母親とともに、東京帝国大学の赤門Click!を入ってすぐ左側にあった宮武外骨の地下拠点、「明治新聞雑誌文庫」へ遊びにいっている。
 宮武外骨の人物像については、多くの書籍や資料が出ているのでそちらを参照いただくとして、日本全体が今日の“北朝鮮”的な「忌々しい世の中」(外骨云)になってしまい、帝大地下室にこもって、せっせと明治期の資料収集や整理に明け暮れていたころの、外骨の目撃談を中心にご紹介したい。外骨が膨大な資料の保存先に、目のカタキにしていたはずの権威の象徴であり、権力生産の中枢である東京帝国大学を選んだのは、先に書いた戦前の労働運動に関連して、当時の特高警察資料Click!が今日でも比較的よく保存されているのと同じ“効果”、つまりちょっとやそっとでは蓄積された資料類や記録が抹殺・廃棄されない、組織としての“保全性”という点へ大いに着目したからだろう。ひょっとすると、この物語の時期である1941年(昭和16)以降には、米軍の空襲をすでに予想して、「地下室でよかった」とさえ思っていたのかもしれない。
 宮武亀四郎(のち満17歳で「外骨」と改名)は、もともと讃岐(香川県阿野郡)の裕福な旧家に生まれているが、この地域では地元の旧家である宮武家・三井家・宮井家の3家の間で、恒常的な嫁とり婿とりが江戸期よりエンエンと行なわれてきた。義母の祖父・新太郎は、この中の三井家の長男に生まれており、吉武家から嫁いできた祖母・宮武シカノ(鹿野)の兄が宮武外骨という間柄だった。義母は、宮武シカノの息子である三井新(あらた)の娘・・・という親戚関係になる。外骨は、ことのほか豪気なシカノ祖母、つまり妹とその娘(+孫娘)をかわいがっていたようなのだ。

 義母は、1941年(昭和16)の春に銀座の伊東屋に就職が決まると、祖母の娘であり外骨にとっては姪に当たる養母・テル(実父・三井新の姉であり、当時の義母は伯母・テルの養女になっていた)とともに、帝大法学部の地下室に陣どっていた宮武外骨を訪ねている。娘の就職が銀座に決まった報告と、久しぶりの顔見せがてら遊びに寄ったのだろう。お気に入りだった妹・シカノの娘や孫娘が訪ねてきたので、外骨はことのほか喜んだ。長い時間、外骨の机の前で3人は談笑していたらしい。義母はその間、外骨のデスク周辺の様子をまじまじと観察していた。
 現在の東大法学部・法学政治学研究科で、東大附属図書館が入っている赤門左手すぐの建物の、広いフロア(書庫)といくつかの部屋に分かれたところに、宮武外骨は机をひとつ持ち込んで勤務していた。(のちに執務室へ畳を持ちこんで敷き、家族で住み着いていた) 当時から少し古びていた、レンガ貼り校舎のくすんだ階段を地下へ降りていくと、薄暗い廊下がT字路となって左右の奥へとつづいている。廊下沿いに並ぶ1室には、盟友だった吉野作造文庫も設置されている。その廊下の途中から、高さが天井まである大きな書棚が両側にズラリと並び、資料類が当時からギッシリ詰まっていたそうだ。書棚で幅が狭くなった廊下を少し歩くと、奥の突き当たりにはかなり広いフロアがあり、そこにも天井までとどきそうな薄暗い“書棚の森”が拡がっていた。まるで柱のように林立する本棚や、床面に積み上げられた資料類をかき分けるように進むと、壁に沿った右手の角隅に中ぐらいの木製机が置かれ、そこに宮武外骨が待っていた。
 
 
 義母は、地下室で大伯父となにを話したのか、65年以上も昔のことなのでハッキリとは憶えていない。ただ、モノめずらしい「明治新聞雑誌文庫」の印象と、外骨のデスクまわりの情景は鮮やかに記憶していた。外骨は、和服姿でイスの背にもたれながら、愛妹・シカノの娘と孫娘を待っていた。禿げた頭に残る髪や髭はすでに真っ白で、義母たちが遊びに出かけた1941年(昭和16)当時はすでに74歳、とうに隠居してもいいような年齢だったが、いまだ資料収集のため精力的に日本全国へ出張していたらしい。デスクの上には、黄色い電球のスタンドが煌々と灯り、集めてきた資料類が山積みにされていた。ふたりの訪問は、それらを分類し整理作業をしている最中だったらしく、手を休めるとニコニコしながら、さっそくふたりにイスを勧めた。
 義母の目を惹いたのは、机上に積まれた古い新聞や雑誌類(おそらく明治から大正期にかけて発行されたものだろう)もそうだが、外骨のデスクの周囲に飾られた美しい絵ハガキの数々だった。部屋の入口から見て、右手の隅に机が設置されていたので、絵ハガキを貼ることができる壁は前面と右面になる。そこには、おそらく明治から大正期に印刷された色とりどりの絵ハガキ類が、ところ狭しと貼られていた。風景や風俗の絵ハガキもあったが、中でも惹かれたのはやはり鮮やかな美女絵ハガキの数々だった。外骨は、美女絵ハガキの蒐集を、なによりも楽しみにしていたらしい。今日的にいえば、さしずめ美女デスクトップ壁紙の蒐集ヲタク・・・といったところだろうか。

 
 義母が、かろうじて憶えていた会話は、おそらくテルに「帝大でも、地下室だとネズミが出てたいへんでしょう?」とでも訊かれたのだろう。宮武外骨は笑いながら、こう答えている。「刑務所じゃ、ネズミの尻尾が食器から出てたこともあったんだよ。だから平気だ」。明治天皇に対する不敬罪で、鍛冶橋監獄へ入れられたときの想い出なのかもしれない。すでに老境に入っていた宮武外骨は、相変わらず特高から執拗にマークされつづけていたようだ。下落合で窪川(佐多)稲子や壺井栄、村山籌子、藤川栄子たちがやっていた尾行刑事に舌を出すClick!ようなことを、先のNHKのドキュメンタリーによれば、宮武外骨もさかんにやっていたらしい。国家権力への批判が根こそぎ“死滅”させられた、「亡国」思想のただ中で、外骨はコツコツと“後世への伝言”を紡ぎつづけていた。
 ちなみに、義母の養母(伯母)であるテルの写真を見て、わたしはビックリしてしまった。彼女は昔風(明治・大正風)の顔立ちではなく、まるで今を生きているような風貌をした現代的な美女だったのだ。外骨が忙しい仕事の合い間をぬい、わざわざ時間を作ってふたりを「明治新聞雑誌文庫」に迎えたのは、愛妹シカノの血をひく美女テルと会うのを、楽しみにしていたからにちがいない。「美人大好き!」の宮武外骨については、機会があればまた書いてみたい。

■写真上:左は、「明治文庫」の廊下で突き当りが書庫。廊下沿いには、外骨の執務室や吉野作造文庫がある。右は、1950年(昭和25)の料亭でくつろぐ外骨。背後には池が見え、対岸には独特な水道塔Click!のような建築が見えるこの情景は、新宿の淀橋浄水場の西、角筈十二社池の端に建っていた料亭から、東京写真工業(のち小西六)の工場方面を向いて撮られたものだろうか。
※その後、佐伯祐三が描く『肥後橋風景』から写真に写る配水塔は、大阪の土佐堀川沿いの中之島にあった配水塔の可能性が高くなった。
■写真中上:宮武外骨と、宮武(三井)シカノつながりの三井家系図。
■写真中下:上は、テルと義母が降りた「明治文庫」への階段(左)と文庫入口(右)。下は、ときにふたりが通されたと思われる応接室(左)と、義母が腰かけたかもしれない現存する来客用イス(右)。
■写真下:上は、義母の記憶から作図した1941年(昭和16)の外骨のデスクまわり。下左は、書庫正面に置かれた朝日新聞社から外骨に寄贈された書棚。下右は、外骨が集めた写真集『美人』の一部で、下落合ではお馴染みの九条武子Click!のブロマイドもしっかり蒐集されていた。外骨筆で写真下にわざわざ「武子」と入れられているので、“武子ちゃん”はお気に入りの美女だったものか。