1947年(昭和22)に「補修版」として発行された、1枚の不可思議な3千分の1地図がある。この地図は、1922年(大正11)に最初のベースとなる地形図が、都市計画東京地方委員会Click!によって制作されたものだ。そして、戦後に発行された1947年(昭和22)の同図「補修版」は、当時の下落合の状況をまったく反映していない。目白駅に近い目白通りClick!の様子が大正期末の姿のままだし、目白通り自体の西への拡幅がまったく描かれていない。また、学習院昭和寮Click!に建っていた寮建築の形状がまるで違うし(昭和寮が建つ以前の帝室林野局の建物か?)、とうに中野へ転居(1939年)してしまっている相馬邸Click!が、そのまま描かれていたりするからだ。
 本来が地形図として活用されているので、街の様子や変化はともかく、地形的な「補修」が戦後まで加えられつづけたものだろうか。同地形図には、現在の「おとめ山公園」Click!の東側にある弁天池が描かれ、そのすぐ南西側には藤稲荷Click!が採取され、相馬邸黒門の西並びには太素神社Click!(妙見社)の参道入口と、社殿と思われる建物が描かれている。(ただし私設社と解釈されたせいか、鳥居マークは付与されていない) でも、相馬邸の敷地に隣接した東側、ないしは邸内敷地の東部、林泉園からの渓流が流れる谷間の下り斜面崖上に、建物の形状と鳥居マークが収録されている。
 同地形図は、鳥居マークが社(やしろ)の参道鳥居や拝殿の位置ではなく、本殿の位置に付与されているので、この社の本殿は林泉園の大きな池、ないしは湧水源のある上流域全体へ向いて建っていたことになる。この社こそが、下落合の御留山から「行方不明」になっている、おそらく大正時代には存在していた、本来の弁天社の姿ではないだろうか? 相馬邸が1939年(昭和14)に中野へと転居し、東邦生命の社長である太田清蔵Click!が入居して間もなく、ちょうどこの社が建っていた位置に南北に通う道路(現・カルガモ坂)が拓かれている。
 地元の伝承によれば、戦前には小さな祠(ほこら)となっていた弁天社は、現在のおとめ山公園の東側にある弁天池(戦後は一時「精魚場」として使われたようだ)に奉られていたといわれ、祠は高台の丘上へ移されたとも、また上野不忍池の弁天堂へ合祀されたとも言われている。(でも、不忍池の弁天堂は神の社ではなく仏教の弁天堂だ) つまり、小さな祠の姿となっていた弁天社がどこへ行ってしまったのか、いまでは「行方不明」となっているのだ。

 
 大正期の姿をとどめている同地形図に描かれた社は、南側の拝殿と祭文殿(釣殿)Click!をはさんで北側の本殿とに分かれた建築様式であり、のちに伝承される小さな祠などではない。また、相馬邸に隣接しているため、とっさに移設された当初の太素神社(妙見社)なのかとも疑ったのだけれど、妙見社の建物は本殿と拝殿とが合体した建築様式であり、しかも相馬邸の西側には黒門と並んで、すでに妙見社への参道入口が同地形図には描かれている。
 さて、この社の存在がもうひとつ不思議なのは、この地形図が初めて制作された1922年(大正11)現在では採取されておらず(なんらかの建物は採取されている)、のちになって描きこまれている点だ。同様に、御留山の東にある弁天池も、当初は描かれずに湿地帯となっていたが、のちに池としての表現が追加されている。弁天池のケースは、湿地帯だった低地にやがて水が溜まり、自然に池が形成されたか、あるいは相馬家が造園の一環として、庭門を出た東側に庭池をひとつ追加造成した・・・と解釈することができる。でも、くだんの社のケースは地図制作時には存在せず、大正末期に建てられ昭和初期には消滅してしまった・・・とは考えにくい。これは、1922年(大正11)以降に忽然と社が姿を現した、つまり築造されたわけではなく、ある時点(大正期だと思われる)でようやく社の存在が都市計画東京地方委員会に認知され、地図に追加して描かれたと考えたほうが自然だ。当初は、林泉園の谷間と相馬邸の敷地に繁っていた森で、社の存在に気づかなかったのだ。そして、この社殿こそが、当初の御留山弁財天の姿をとらえたものではないだろうか?
 
 
 そして、相馬家ではこの社から小さな祠の弁天社を分祀して、林泉園Click!からの渓流がくだる谷間の南に形成された(あるいは造成した)弁天池へ、奉っていたのではないかと想像している。1938年(昭和13)の「火保図」にも、また1947年(昭和22)の同地形図にも、現在のおとめ山公園弁天池の前身である池が採取されており、池の中央にはともに小さな島が描かれている。この“中ノ島”に、かわいい弁天の祠を安置したものだろう。そして今日、地元で「弁天さんの祠」として記憶されているのは、この弁天池にあった小さな祠のことであり、林泉園の池または湧水源に向かって存在していた、大きな弁財天の社と思われる建物ではないことがわかる。
 相馬邸Click!の東側に描かれた弁財天と思われる社は、相馬邸の庭である御留山の渓谷から北へと登る小径の上、地形的にみれば丘上、あるいは林泉園からつづく谷間の崖っぷちに位置している。拝殿および本殿は、黒門Click!が建っている前の道(おそらく明治末に造成されている)をはさんで、林泉園のある真北を向いて建立されていた。今日みられる弁天社には、たとえば下落合摺鉢山古墳Click!近くの社のように、木彫りの弁天像が「御神体」として安置されている例が多いけれど、そのほとんどが江戸期以降にブームとなった弁天信仰とともに奉られたもので、古くから存在していたわけではない。本来の元神は、原日本古来からの龍神(水神)を奉っていたものだろう。
 
 御留山に存在した古い弁天社も、本殿の中にはもともと「御神体」など存在していなかったと思われる。なぜなら、三輪山の大神(おおみわ)社の御神体が「山」そのものであるのと同様に、御留山弁天の御神体は、林泉園の「池」あるいは「泉」そのものだったと思われるからだ。弁天池にあった祠のゆくえについては、近く詳しい取材をさせていただく予定になっているので、改めてご報告したい。

■写真上:社が建っていたあたりの現状で、カルガモ坂の造成とともに痕跡はまったくない。
■写真中上:上は、1922年(大正11)の地形図をベースに作成された1947年(昭和22)の「補修図」。街の様子は大正期のままの表現が多く見られ、赤い丸印が相馬邸の東側に建立されていた弁財天と思われる社。下左は、同社の拡大。下右は、1922年(大正11)現在の同地形図にみる同所。
■写真中下:上左は、同地形図に描かれた弁天池。池の規模は大きく描かれ、弁天の祠を奉ったとみられる“中ノ島”が描かれている。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同池。相馬家により庭園池として整備されたのか、ほぼ現在と同様のかたちをしている。下左は、1967年(昭和42)の同池で、弁天社の祠があったと思われる中ノ島は消え「精魚場」となっている。おとめ山公園となる以前、1960年代前半の姿を伝えているものと思われる。下右は、現在の弁天池。
■写真下:左は、地形図の社あたりを別角度から。右は、薬王院の西にある下落合弁財天社。