昭和初期の推理小説あるいは怪奇小説の大流行で、さまざまな雑誌にはおどろおどろしい作品が数多く連載されている。今日の感覚でいうなら、TVの番組が連日2時間サスペンスドラマだらけ・・・といったところだろうか。婦人向けの雑誌も例外でなく、ヒロインの周囲にはまともな人物がおらず、みんな怪しい連中ばかりが登場して彼女を悩ませることになる。そこには、「わたしは善人です」という顔をした人間は稀で、「オレ怪しいだろう」とか「あたくし怪しくてよ」といった人々だらけ。こんな作品ばかり読んでいると、日常の感覚にもどるのがタイヘンだ。
 ナカムラさんClick!が研究されている、下落合は「熊本村」界隈Click!に住んだ竹中英太郎Click!の物語に刺激されて、彼の絵が採用された作品を読んでみる。三上於菟吉が、1930年(昭和5)ごろに「主婦之友」へ連載していた『銀座事件』だ。この作品は、竹中の挿画と相まっておどろおどろしいことこの上なく、ほとんどの登場人物がなにやら怪しげな雰囲気を漂わせている。こんな怪しい人間が跳梁する東京は、まさに魔都とでも呼ぶべき地方になってしまうのだけれど、作品の文章に刺激されたものか竹中の挿画もモノすごい。まるで、サスペンスドラマのワンシーンを切り取ってきたような、2時間に5件の連続殺人事件でも起きてしまいそうな雰囲気なのだ。
 「罠の獣」とか、「富豪殺し犯人近々捕縛か?/驚くべき秘密展開せん」とか、「秘密文書」とか、大きな活字が躍る1930年(昭和5)発行の「主婦之友」5月号から引用してみよう。

  ●
 「君は気が違つたのだ。」/彼は廣一を指して叫んだ。
 「いゝえ、ちつとも気なんか違ひはしないさ。」/瀨端伯の調子は驚くべき静かさだつた。
 「僕は何も君を佐屋殺し犯人だと告発しはしないよ。どの道、それは道理至極な、同意してもいゝとさへ思はれる事なのだからねえ。どうして君がそんなに昂奮するのか僕にはわからない。こんなケチ臭い事件に関して、君がほんたうに告発されるやうなことがあれば、こゝに今井君がゐて証明してくれるさ。現場を見てゐるのだから----疑ひなく君のために有利な証言をしてくださるだろう。」廣一は息をつめた。瀨端伯の態度は測るべからざるものであつた。まるで家常茶飯の事を語るかのやうに話すのだつたが、さうした気安げな言葉も須田氏の不安を除く役には立たぬように見えた。
 「僕は何も見はしませんでした----たゞ、犯人の手だけの外は----」
 と、廣一はやつとのことで言つた。
 「その指には血紅色の玉の指輪がはまつてゐましたが----」
 「それは妹からも聴いてゐたが、いつぞやの夜の一件と不思議に合つてゐますね。須田氏のために充分利益になりませう。それは恐らく或る秘密結社の標章だらうが、どんなロマンチックな人間だつて、わが須田君がそんな結社の一員と思ふ筈はないから----」
 須田氏は肉を突附いて、会話にまるで無頓着な風をよそほつたが、にも拘らず廣一の方を、不安げに瞥見するのだつた。
  ●
 殺人事件の犯人と謎の秘密結社について、こんな会話がエンエンとつづいていくランチタイムもめずらしい。登場人物たちは、殺人と秘密結社でアタマがいっぱいになり、もう生活のための仕事をするどころではなく、ヘタをするとサスペンス貧乏になりかねない状況なのだ。

 さて、三上と竹中とのコラボによる掲載もおどろおどろしいが、この作品ページの最後に添えられた媒体広告も、さらに輪をかけていかにも怪しげだ。昭和初期に発行された雑誌類は、いろいろな調べもののために参照するけれど、これほど怪しい広告はわたしも初めて目にした。
  ●
 色を白くし吹出物を除くといふ意味の薬品や化粧品類は実に数が多い。博士学士の証明を宣伝材料とする発売元あり或ひは専売特許を看板とする発売元あり、新聞雑誌の紙上に殆ど広告文の競技をなしてゐる。----諸君が何品を信用されやうと何品を購入しやうと自由勝手である。我等は敢て他品の批判はしたくない。けれども本誌を披見さるゝ読者中で幾分でも教養の程度の高い鑑別眼のすぐれた人達に対して、我等は次の問題を考察して貰ひたい。曰く、今日何十種も前記の如く色白を標榜する薬品化粧品はあるが、人間の皮膚の黒色を根拠ある化学的操作で、ほんたうに漂白する方法に就て、帝大工科あたりの学生を真に首肯せしめるだけの化学的漂白法を立証し得る品が一ツでもあるだらうか?
 我等は広告的文句を全廃して、読者の前に黙つて次に特許条文の一部を公開する。本品は『レオン洗顔クリーム』と称し各国の専売特許を得てゐる。レオン洗顔クリームを使用して短時日に皮膚を西洋人の如く美白色に変化すると雖も色素消失の場合に皮膚が絶対に損傷せざるの点は本品の誇りとする所にてニキビ雀斑等の吹出物の除去は極めて迅速なり。特許条文は売薬の誇大効能等と異りて絶対に虚偽虚飾なき事を知られたし。
  ●

 「広告的文句を全廃して」というわりには、ページすべてをダラダラコピーで埋めつくし、西洋人のような「美白色」と明治以来の欧米コンプレックスを隠さない「レオン洗顔クリーム」。そういうあんたが、いっちばん怪しい!・・・と、つい『銀座事件』のノリで指さしして叫びたくなってしまう「主婦之友」の広告なのだ。そして、添えられた「少女の写真」がきわめつけ。信じられないほど色黒な少女「黒子さん」の顔と肘から先の腕だけが、「レオン洗顔クリーム」によって真っ白に「漂白」されてしまっている。そう、この「レオン洗顔クリーム」こそ、戦後に発売される“白子さん黒子さん”の「ロゼット洗顔パスタ」の原型、1929年(昭和4)に開発されたもっとも初期型の製品だったのだ。
 いかにも怪奇で、おどろおどろしい三上於菟吉+竹中英太郎『銀座事件』を読んだあとの主婦たちは、“怪しみ感覚”が完全にマヒしていたと思われるので、「レオン洗顔クリーム」の広告を読んでも「別にフツーじゃん」と、つい神田小川町ビルヂングのレオン商会へ注文してしまったのだろう。

■写真上:「き、きみは気が違ったのだ!」、「美女の妹の前で自制心を失ったのは許せん」・・・。
■写真中上:「ヤバイ、新聞記者だ。わたしは隣室へ消えるのだ!」、「お皿やフォークは?」・・・。
■写真中下:「あの金庫に仕舞われた秘密文書は何なのだ? 今夜、伯爵の晩餐会へ誘われているし」・・・と、こういった調子の話がエンエンとつづくのだが、挿画はすべて竹中英太郎。
■写真下:『銀座事件』の対向ページに掲載された、「レオン洗顔クリーム」の媒体広告(部分)。