映画の美術監督であり、洋画家の久保一雄は1928年(昭和3)3月15日の明けがた、自宅へいきなり特高警察に踏みこまれて逮捕された。このときは、共産党員ばかりでなく労働組合や農民組合、芸術家にまで検挙がおよび、全国で1,500人以上の人々がいっせいに拘引されている。久保は京都の映画撮影所に勤めるかたわら、日本労働組合評議会の京都における「キネマ支部」委員長を引き受けていた。以降5年間にわたり、拘置所や刑務所へ投獄されている。冒頭の作品は、釈放後の1933年(昭和8)に制作された久保一雄『3・15』だ。
 いわゆる「三・一五事件」Click!と呼ばれる大量検挙は、落合地域でも大きなツメ跡を残している。当時、この地域ではプロレタリア文学運動をめぐり、3つの団体が互いにせめぎあっていた。上落合215番地に本部を置いていた「前衛芸術家同盟(前芸)」、淀橋の「日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)」、そして中野(高円寺寄り)の「労農芸術家連盟(労芸)」だ。3・15事件で検挙を受けたのは、おもに淀橋の「プロ芸」のメンバーで、このとき中野重治Click!や鹿地亘Click!らが拘引(数日後に釈放)されている。ところが、一斉検挙は秘密裏に行われ新聞発表も差し止められたため、世間ではなにが起きているのかわからず、さまざまな憶測や混乱が生じた。
 このとき、落合地域の「前芸」では何度か集会が開かれ、当局の弾圧へ対抗するためには小異を棄てて大同団結したほうがよいということで、「前芸」と「プロ芸」との合体話が急速に進んでいる。当時、「前芸」と「プロ芸」は芸術理論上のちがいから、お互い鋭く対立していた。でも、すでに左翼同士で悠長に“理論闘争”をしている段階ではなく、より団結して弾圧に抗するのが急務だ・・・との状況判断がなされた。こうして、「前芸」からは林房雄、蔵原惟人、佐々木孝丸、川口浩、村山知義らが、「プロ芸」からは中野重治、鹿地亘、佐野碩、森山啓、猪野省三らが集合し、「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」が結成され、淀橋町角筈86番地にあった「プロ芸」の事務所に本部が置かれた。だが、たび重なる嫌がらせの家宅捜査で仕事ができず、「ナップ」本部はほどなく上落合215番地の旧「前芸」事務所跡へ、つづいてすぐに上落合460番地へと引っ越している。村山知義Click!が住んでいた、上落合186番地の三角アトリエClick!にもほど近い敷地だ。これを契機に、数多くのプロレタリア芸術家たちが落合地域へと集合してくることになった。

 
 落合では、ナップ結成の決定的な要因となった同事件だが、冒頭の作品『3・15』を描いた久保一雄はそのとき、どのような状況だったのだろう。撮影所のある京都で迎えた1928年(昭和3)3月15日の朝の様子を、2009年に出版された画集『久保一雄1901-1974』から引用してみよう。
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 “昭和3年の明け方に踏み込まれた。病弱な清(きよ:久保一雄夫人)が結核で床に伏している中で行われた。私を連行した特高係長は同情したのか、上司に「病床にある奥さんは大変重態でありました」と報告した。この時、赤ら顔の威張った上役野郎が「何! こいつら非国民どもの一人や二人死のうが知ったことか、バカ野郎!」と怒鳴った。私は電気に打たれたような激しい怒りが全身に沸き上がり、目玉が飛びだしそうな燃えるまなざしでこいつを睨みつけた。私は一生この野郎の顔を忘れられなくなった”と、後の回想で記しています。/この日から出獄するまで日記や作品は勿論有りません。京都拘置所から大阪拘置所へ護送され堺本所(ママ)へ移され、その後奈良刑務所に投獄。その5年間に詠まれた歌だけがありました。(カッコ内は引用者註)
                           (同画集・山倉研志「久保一雄1901-1974」より)
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 久保一雄は特高の拷問にも耐え、非転向のまま「要監視人物」として奈良刑務所を出所している。久保は絵画を描きながら、同時に映画の美術監督をつとめるという、画家の中では異色の存在となっていった。彼が美術を担当した映画の監督には、成瀬巳喜男をはじめ木村荘十二、山本嘉次郎、マキノ雅弘、黒澤明、山本薩夫、今井正、五所平之助など多数にのぼり、その作品数は戦前戦後を通じて膨大な数におよんでいる。
 
 
 『3・15』を描いた久保一雄は、下落合とも深いつながりを持っている。東京美術学校を出た叔父の久保煕治は、築地小劇場の舞台美術を担当するとともに画家をめざしていたが、彼がその叔父を頼って1918年(大正7)にふるさとの群馬県から上京したとき、同家に居候をしていたのが川口軌外Click!夫妻だった。このサイトでも、これまでに幾度となく登場してきたが、佐伯祐三Click!ともパリで友人同士であり、のちに1930年協会Click!へも参加している川口軌外Click!を、久保一雄は生涯の師として交流をつづけることになる。そして、川口が下落合1995番地にアトリエClick!を建てて住むようになると、久保一雄は西武電車を中井駅で降りて一ノ坂を上りながら、頻繁に川口アトリエを訪れるようになった。のちに、病気がちな川口が、和歌山県立美術館で開催された「川口軌外展」の作品選定を、久保一雄へ一任していることからも、両者の信頼関係がうかがわれる。
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 1962年5月の日記“17日ぶりに川口さん宅訪問~門は開いているのに誰もいない~。一旦引き返すが、持参した菓子もあり~川口さんの近作を見せてもらいたい~川口さんから絵を学びたい欲求が強くあったので引き返してみる~。垣根の外で京村さん(長男)の奥さんに出会う、川口さんは病気で入院している由、愕然となる・・・。いつか来るであろう運命であるが、私の心は一変に暗く、絶望が心を重く沈めている・・・”/久保一雄が師と仰いだ川口軌外は生涯画家でした。父が一代で築いた財産を相続し絵だけを描いた人で、財産が底をついても美術学校や学校の先生とならず、画家と言う肩書きだけで貫いた人でした。久保は45年前に「学歴や肩書きを捨てて画家を目指せ!」と熱く語った師を眩しく見て、実践した生き方を尊敬していました。二人は師弟関係以上に、激動の時代を一本筋を通して生きた精神という絆で結ばれていたのかもしれません。(同上)
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 戦後、数多くの人々が1928年(昭和3)に起きた「三・一五事件」について、堰を切ったように語りだした。久保一雄もまた、同事件についての体験を話しはじめたが、それは青年時代の思い出としてではなく、「来なかったのは戦車だけ」といわれた大規模な東宝争議にかかわる中でのことだった。この時期、黒澤明と組んだ作品『虎の尾を踏む男達』がGHQによる検閲で上映禁止となり、つづいて『素晴らしき日曜日』を撮影している最中だった。
 山倉研志様をはじめ久保一雄のご親族のみなさま、ギャラリーいがらし(池袋モンパルナス・アトリエ村の小さな画廊)の「久保一雄展」へお招きいただき、ほんとうにありがとうございました。

■写真上:5年の服役から釈放されたあとに描かれた、1933年(昭和8)の久保一雄『3・15』。
■写真中上:上は、記事差し止め(報道管制)が解除されたあと、「三・一五事件」について報じる1928年(昭和3)4月11日の東京朝日新聞(夕刊)。下左は、上落合で最終的なナップ本部が置かれていた上落合460番地の現状。下右は、「マヴォ」や「左翼劇場」、「少年戦旗」などの本部が置かれた上落合186番地の村山知義のアトリエ(三角の家)跡。
■写真中下:上左は、1918年(大正7)に撮影された久保煕治宅。左から右へ、叔父の久保煕治、川口軌外、久保一雄、川口忍(軌外夫人)。上右は、1924年(大正13)にパリ郊外のクラマールで撮影されたもの。左から右へ、川口軌外、佐伯弥智子、佐伯祐三、木下勝治郎。下左は、1926年(大正15)に制作された久保一雄『自画像』。下右は、1947年(昭和22)3月15日にストライキ決行中の東宝で「三・一五事件」について演説する久保一雄で、このあと登壇したのが黒澤明だった。
■写真下:左は1939年(昭和14)に祖師谷村の自宅の久保一雄で、右は師と仰いだ川口軌外。