洋画家・曾宮一念Click!は庭いじりが大好きだったようだが、家の増改築も好きだったようで、しょっちゅうどこかへ手を入れるか増築をしていたようだ。下落合へ家を新築した2年後に、関東大震災で壁の漆喰の多くが剥脱し、早くも外観の意匠が変わるほどの改築を行っている。また、庭に居間と寝室を兼ねたような個室を増築したり、昭和初期には土台から改築しなおしたりと、その家作(かさく)はかなりあわただしい。近くの第三文化村にあった、目白会館・文化アパートClick!へ仮住まいをしていたのは、昭和初期に土台から改築工事をした時期のことなのかもしれない。
 曾宮一念が下落合へやってくるきっかけとなったのは、中村彝Click!が近所に住むように誘ったからだ。中村彝は自宅アトリエの近くに、曾宮用の借家をわざわざ契約して待っていた様子からも、彝にとって曾宮はお気に入りの友人Click!だったようだ。「曾宮一念氏インタビュー」(『新宿歴史博物館紀要・創刊号』/1992年)から、そのくだりを引用してみよう。
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 その後、僕はしばらくあちこち放浪してたんですよ。静岡県の友達のところにいたり、関西の西ノ宮にいたりしてね。それが、中村がいい加減に放浪を止めて帰ってこいよ、と言って、彼の家(豊多摩郡落合村下落合464番地/略)の近所に小さな家を借りといてくれて、そこへ住んだんです。そこに余程バカな泥棒でしょう、僕の何もない家に泥棒が入りましてね。それからなんとか落合の、中村の近所に家を建てようと思いましてね。そして、やっとこ細々と家を建てましてね。そこへ住んだんです。(豊多摩郡落合村下落合623番地/略) そのアトリエは作りだしたのは大正9年(1920)だったけど、実際に入ったのは10年ですね。それから土台をいっぺん改築したりして、半ば改築したら、戦争になっちゃいましてね。
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 静岡の江崎晴城様Click!からいただいた貴重な冒頭の写真が、1921年(大正10)の4月ごろに撮影された、下落合623番地に建築中の曾宮一念邸だ。邸の庭には、いまだ樹木がほとんど植えられておらず、南側の窓外に藤棚を造るつもりで諏訪谷Click!から採集してきた、高さ80~90cmほどに伸びた藤の苗が軒下に見えている。その手前に立つのが、当時はガリガリにやせていた曾宮一念で、右へ曾宮の母、息子の俊一を抱く妻の曾宮綾子の順に並んでいる。赤ん坊の俊一は、近くの佐伯祐三Click!の家へ頻繁に預けられているが、のちに戦争で召集され戦死している。家の竣工からそれほどたたないころ、曾宮邸へ近くにアトリエを建てた佐伯祐三夫妻がいきなり姿を見せた。
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 私の家がやっとのことでできた時、家ができて一週間もたった頃でしょうか、それは大正10年(1921)の夏か秋だったろうと思います。ひょっこり佐伯祐三がうちに来たんです。足の悪い松葉杖の奥さんを連れてね。それまで僕は会ったことがなかったけど、来まして。何しに来たかと思ったら、自分も今この先にアトリエを建てていると。だから私の家が建った時とほとんど同時ですね。「君んとこの窓の鎧戸だの、柱の塗り方の色がいいからこれを見に来たんだ」と。ちょうど私の家は、佐伯のうちから駅のほうへ歩いて行く途中にあったんです。で、それが目についたんでしょう。この時初めてうちに上がりまして、中を見たりなんかして、それで自分の家のペンキを塗ったそうです。それが佐伯とのつきあての初めです。 (同上)
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 このころの曾宮邸の様子を、友人だった鶴田吾郎が『初秋』Click!(1921年)として描いている。また、冒頭の写真については曾宮一念『いはの群』(座右寶刊行会/1938年)でも触れている。
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 秋に雑草を刈つたまゝ地ならしもせず、檜苗をめぐらした他には例の桐の木だけが唯一の立木である。まだ昔の畑の畝の跡が残り、泥と木屑がちらばつた空地に貧弱で無格好な我が家が建つてゐた。二月三月の空ッ風ではとても住む気になれず、折角痩せる思ひで建てたが自分の家のやうな気になれない。/(中略) しかしそれよりもこの空地を何とか庭らしくしなくては裸でゐるやうでやりきれぬ。その頃前は大根洗ひ場の湧水のある谷でその周囲は笹と雑木の薮であつたから此処からボツボツ仕入れようといふわけで、或る日溝川べりの湿地から野生の藤を掘つて来て家の東側に植ゑた、緑蔭と紫の花房とを空想して植ゑたその野生の藤は芽を出しかけたまゝ立ち枯れてしまつた。だから此の家初めての写真には三尺ばかりのこの藤の傍で痩せこけた私が立つてゐるのである。
                                         (同書「庭のいざこざ抄」より)
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 次の写真は、おそらく大正末か昭和初期の曾宮邸の様子で、庭の南側から北へ向けて撮影されている。奧には、背の低い電燈線Click!の電柱が見えているので、右手の画角外には浅川邸沿いの南北道路が通っているのだろう。曾宮邸の屋根東側の切妻デザインが、建築当初に比べて大きく変わっているのがわかる。おそらく、関東大震災で剥脱した外壁の漆喰を下見板張りに改修し、ついでに外観を含めた大幅なリフォームをしているのだろう。東側に設置されていた庇のあるドアが、よしずの垂れるはめ殺しの窓のように改造されているようだ。また、庭木もだいぶ揃いはじめており、ガーデニングが好きだった曾宮はご満悦の表情を浮かべている。
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 中村彝氏のところからポプラの枝を切つて来て挿木にし、雑司谷の安藤氏からは手車に一荷のものを搬んだ。内訳にすると檜苗、楓苗、萩、山吹、はちす、白い小花の低い常盤木、つつじ、連翹とアカシアとの芽生え、このアカシアの芽生と前記のポプラの挿木とが後に庭のいざこざ上重大事を引起こすことになるのである。その後近所の養鶏場から葡萄の古株を二本、また乙女椿、斑入大輪の椿、山茶花等は私が乳母車で搬んで来た。ちようど近くで佐伯君も庭を造つてゐて木通の相当年経たものを二本くれた、以上が私の造園の総材料である。 (同上)
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 1921年(大正10)の当時、近所の農家が営む養鶏場ではブドウの苗木なども売られていたのがわかる。この養鶏場Click!とは、おそらく佐伯アトリエや青柳邸Click!の東隣りにあったものだろう。「庭のいざこざ上重大事を引起こす」事件に興味津々だけれど、それはまた、別の物語。

 
 3枚目の写真は、南の庭から東側を向いて撮影されたもの。桐の木やブドウ棚よりも、東寄りの位置から浅川邸の方角を向いてシャッターが切られている。奧に見えているのが、道を1本隔てた東隣りの浅川家の塀だ。佐伯祐三が1926年(大正10)10月23日に描いた「浅川ヘイ」は、まさにこの塀のことだ。ただし、わたしが1970年代に目撃した「浅川ヘイ」(当時はY邸の塀)とは若干ちがっている。この写真では、塀の骨組みである木柱が外壁の外へ露出しているけれど、わたしが見た古い塀は、骨組みはこのように露出していなかった。戦前の旧・土井邸の時代に、より厚く壁土が塗られ骨組みはすべて隠されていたのかもしれない。この浅川邸の東隣りには、のちに牧野虎雄Click!が引っ越してきてアトリエClick!を建てることになる。
 かなり記事が長くなってしまったので、そろそろキーボードを置きたいのだけれど、曾宮一念と佐伯祐三をめぐる諏訪谷の情景や物語は、いくら書いても書き足りないような気がするのだ。

■写真上:1921年(大正10)の4月に撮影された、諏訪谷に面して建設中の曾宮一念邸。
■写真中上:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる曾宮邸で、すでにかなりの増改築をしているのがわかる。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる曾宮邸と各撮影ポイント。
■写真中下:大正末か昭和初期に、庭東側の南から北を向いて撮影された曾宮邸と庭。
■写真下:上は、ほぼ同じ時期に撮影されたと思われる庭の様子。写っている人物は、ともに曾宮一念。下は、1970年代に古色漂う「浅川ヘイ」がつづいていたあたりの現状。