木村荘八Click!のエッセイを読んでいたら、ちんやか今半か、ももんじ屋かあるいは別の店だかは忘れてしまったけれど、子供のころに連れられて入ったすき焼き屋Click!の女中さんが、白足袋ではなく青足袋をはいていたのを思い出した。青足袋は、もちろん男用の足袋であり女性がはくことはありえないのだけれど、すき焼き屋あるいは牛鍋屋などの肉料理屋の女中さんのみが青足袋をはく“お約束”になっていた・・・という、木村の文章を読んで思い当たったのだ。わたしが小学生のころだが、いまだ戦前の(というか明治・大正期の)東京の習慣が、そのまま伝わって残っていたのだろう。子供心にも、それは違和感のある光景として記憶にこびりついたにちがいない。
 木村荘八は、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!で焼けたわたしの東日本橋の元実家から、わずか200mほどのところで生まれ育っている。小学校も、親父と同じ千代田小学校(現・日本橋中学校)だ。ただし、木村の通っていた時代は、千代田小学校がいまだ浅草御門外(現・浅草橋南詰め)にあったかもしれず、現在の薬研堀とは校舎の位置がちがっていたものか・・・。木村荘八の名は、新宿界隈では1935年(昭和10)に制作された『新宿駅』で有名だ。
 木村の下町同士の盟友に、銀座の吟香堂Click!(精錡水本舗)で生まれ育った“草土社”仲間の岸田劉生Click!がいる。あまりに喧嘩っぱやく、短気でわがままな劉生に愛想(あいそ)をつかし、ついに晩年には袂を分かってしまうふたりだが、木村は劉生のことが死ぬまで気がかりだったようだ。劉生の死後に書かれた彼のエッセイには、随所で劉生との親しい想い出話が登場している。
 
 さて、麗子マンガClick!を描くのが大好きだった劉生は、風俗画もまれにだが描いていた。木村荘八は、なぜ劉生が風俗画をもっと描かなかったのか、彼ほどの鋭い観察眼と風刺力があれば、風俗画の分野でも超一流になれただろうに・・・と盛んに惜しがっている。風俗画には興味を惹かれなかった劉生だけれど、それでもほんのわずかだが作品を残している。冒頭の絵は、1927年(昭和2)の「東京日日新聞」に掲載された、岸田劉生の『新古細句銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』と題する作品だ。彼のふるさと銀座に登場した、昭和初期の「モボモガ」を描いている。
 「モボ」はモダン・ボーイ、「モガ」はモダン・ガールを縮めた言葉だが、「モダン」自体もちぢめるのが得意な東京言葉Click!でモダーンの略語だ。電車に初めて「グリーン車」が登場したとき、1年ももたず「グリン車」になってしまったのと同様のケース。劉生は、「モボモガ」の風俗について容赦のない嘲笑をあびせている。彼にしてみれば、欧米の絵画を単にコピーClick!するだけの洋画家たちを激しく批判しつづけたのと同じ眼差しで、「モボモガ」は欧米モードの無批判な猿マネ、コピーファッションとしか映らなかっただろう。モダン・ガールを「毛断嬢」としているが、銀座通りに店開きしているカフェはもっと強烈で容赦がない。彼女たちが贔屓にする店は、カフェ「KUMOTORA」だ。
 カフェ「クモトラ」、これを劉生ならではの漢字を当てるとカフェ「雲虎」ということになる。もちろん、カフェ「ウンコ」という店名なわけで、劉生は「モボモガ」たちのことをウンコ野郎といっているのだ。麗子といっしよに、「ウンコ」模型を作っては来客相手に遊んでいた劉生らしい、臭い嘲笑なのだ。1952年(昭和27)出版の『現代風俗帖』(東峰書房)から、木村荘八の話を聞いてみよう。
 
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 岸田が「毛断嬢」及びこれに横目を使ひながら歩道をすれちがふモボをこのやうに画きながら、その風俗に対して存分の揶揄嘲笑を浴せてゐたことは、僕にはこの絵のバックのカフェーの「名」を見て、その影に坐る岸田の笑み崩れた童顔を見透すやうに、よくわかるものがあるが、・・・・・・それは「説明」の冗文を用ゐないと一般には通用しない。さぞや土中の岸田は、この僕のテレくさい真顔の「説明」を、したりと嘲笑揶揄、ざまを見ろとも、手を拍つことであらう。岸田ともある達識が当時「毛断」発祥のさなかでこれを痛嘲したのも、今では活歴史とならうから、「楽屋話」を少々書いておかうと思ふ。(中略)/この「クモトラ」は、妙に、こんなことのひどく好きだつた岸田が、ヘンなものや、汚いもの気障なものには、その「人」なりその「事」に対して、常に浴せることを例とした口癖の(岸田製の)造語で、それは漢字を宛てて雲虎(クモトラ)とする。
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 岸田劉生は、気に入らない人物から(特にキザな貴婦人が大っキライだったらしい。ちなみに「キザ」も気障りの略語)、展覧会場などで、たまたま高価な丸帯の絵柄などを頼まれたりすると、マジメな顔をして「雲と虎の絵を描きましょうかな。雲中の虎ですな」・・・などと平然と答えていたそうだ。「雲龍なら聞いたことがござぁますが、雲に虎も伝統模様ざぁますか?」と訊ねる貴婦人に、事情を知っている周囲の友人たちは噴き出すのを必死にこらえて、その場から逃げ出していったそうだ。劉生は平然と「雲虎」図を仕上げては、陰で「バッカ野郎!」と大笑いしていたらしい。劉生の激しい気性Click!を考えれば、殴られずに「雲虎」図を描いてもらっただけ、彼女は幸ウンだったといえるだろうか。

 佐伯祐三Click!のフランスパン「雲虎」Click!といい、劉生のカフェ「雲虎」といい、どうして個性が強烈な画家たちは排泄物にこだわるのだろうか。内部に蓄積されてきた衝動やアイデアを、一気に外部へと吐き出す表現・創作行為が、どこか排泄行為に通じる快感をともなうからかもしれない。

■写真上:1927年(昭和2)の「東京日日新聞」に掲載された、岸田劉生『新古細句銀座通』。
■写真中上:。左は、大正期に撮影されたと思われるまだ若い木村荘八。右は、1913年(大正2)に制作された木村荘八『自画像』。岸田劉生と同様、いかにもきかん気の強そうな下町顔だ。
■写真中下:左は、1927年(昭和2)の雑誌『太陽』6月号に掲載された岡本一平の風俗画。右は、だんだんハイ・カラーが高くなって止まらない「ハイカラ」を皮肉った、1902年(明治35)の『文芸倶楽部』9月号掲載のポンチ画。のちに、木村荘八が描きなおした作品。
■写真下:1935年(昭和10)の木村荘八の『新宿駅』で、正面のクラブ歯磨Click!看板が目立つ。