米軍が爆撃効果測定用に撮影した、1947年(昭和22)の焼け跡の東京市街地を見ていると、むき出しになった地面のあちこちに、「サークル」状のフォルムClick!が存在するのに気がついて記事に書いてきた。それは、関東大震災Click!の直後から焼け野原を積極的に歩きまわり、ふだんは住宅や寺社などの建造物に覆われて調べることができない、東京各地に残る数多くの古墳を実地調査した鳥居龍蔵Click!の発想を、知らず知らずトレースしていたことにもなるのだが、鳥居は大正末から昭和初期にかけ、東京市街地における古墳跡の密集度に改めて驚嘆している。
 わたしも同様に、関東地方は平野部が広く温暖で暮らしやすい土地がらから、全国的にも稀な古墳の密集地帯であり、都市化がなされなかったぶん巨大な古墳が数多く残る北関東(群馬・栃木)の上毛野Click!(かみぬけの)地域や、北武蔵の埼玉(さきたま)などの地域とならび、南武蔵(東京・神奈川)は大王レベルが眠る古墳時代の“都”ではないかと考えている。その事実がわずか60年前まで認められなかったのは、「ヤマトタケル」が「野蛮」な「蝦夷」を「東征」するのに、ナラをしのぐ巨大な古墳群が「坂東」各地に続々と出現しては、非常にまずかったからだ。北朝鮮の「将軍様史観」ではないが、歴史学全般に“見て見ぬふり”の「皇国史観」Click!の呪縛が存在していた。
 神田川とその支流域にも「百八塚」(無数の塚)伝承が残り、1947年(昭和22)の空中写真を見ると、文字どおり無数のサークルを見出すことができる。また、先ごろ下落合駅前の北側へ円弧状に湾曲した鎌倉街道をさかのぼってトレースすると、大正初期まで残った「摺鉢山」という旧地名の存在も含め、どうやら200m級(大王レベル)の前方後円墳だった可能性が浮上Click!してきた。

 これらサークル状の痕跡は、戦後に撮影された焼け跡写真を中心に探してきたものだが、先日、さらに以前に陸軍によって撮影された1936年(昭和11)の空中写真にも、不可解なサークルがいくつもとらえられていることに気がついた。サークル探しの注意は、ほとんど1947年(昭和22)の焼け跡写真に向けられていたので、1936年(昭和11)の写真にはそのような注意をあまり払わず、おもに道路や家屋などの確認用に使用してきた。ところが、同年の上落合写真を眺めて、家々や道筋の様子を観察していた際、目が疲れたので写真を縮小し、ディスプレイから離れてボンヤリしていたところ、とてつもなく大きなサークルが浮かび上がっているのに気がついた。
 ひとつ(サークルA)は、上落合1丁目452番地(現・上落合1丁目8番地)あたりを中心にして、直径が100mをゆうに超えるサークルだ。北は光徳寺のある道筋のさらに北側へはみ出し、南は落合第二小学校の北辺までかかっており、おそらく直径120~130mほどはありそうな正円形だ。このサークルは、東に向かって円弧の一部が切れており、巨大な円墳というよりは前方後円墳ないしは帆立貝式古墳の痕跡を連想させる。上落合には、旧字で「大塚」という地名が残るけれど、まさにその名にふさわしい大規模な正円のフォルムということになる。ちなみに、山手通り(環6)の工事で潰されてしまった上落合の浅間塚古墳(大塚古墳Click!)は、直径が20~30mほどの小さな円墳であり、小字として残っていた「大塚」の地名にはふさわしくない規模のように思える。
 
 もし、これが前方後円墳の残滓だとすると、前方部を想定したその規模は250mほどにもなるだろうか? 下落合駅前の摺鉢山Click!、すなわち下落合摺鉢山古墳(仮)の規模を凌駕する、南関東では最大クラスということになる。後円部のサイズは、江戸期に「落合富士」Click!にされていた、同じ上落合の浅間塚古墳Click!(円墳)の6~7倍の規模に相当するだろう。
 もうひとつ(サークルB)は、上記のサークルから北西へわずか100mほど離れた、整流化工事が行われる前の妙正寺川沿いに見えている。妙正寺川を、まるで周濠に見立てたかのようなサークルで、下落合3丁目1847番地(現・中落合1丁目13番地)あたりを中心に見える大きな正円形だ。当初は、蛇行する妙正寺川が地形を削った自然の造形かとも思ったが、下落合駅前のケースと同様に鎌倉街道がサークルをよけて迂回し、道筋がきれいに湾曲していることから、少なくとも鎌倉期以前から存在しているサークルなのだろう。妙正寺川(旧流)から離れた西側の地面にも、円弧の痕跡がつづいていることなどから、古い時代に正円形のなんらかの人工物が存在していたことがうかがわれる。このフォルムは、正円形に切れ目がないようなので、巨大な円墳の跡だろうか。直径は100mほどで、下落合摺鉢山古墳(仮)の後円部とほぼ同じ規模に匹敵する。
 
 両者に共通するのは、上落合は比較的早くから農地として拓けた地域であり、おそらく墳丘があったとしても崩された時期はかなり早く、江戸期以前ということになりそうだ。でも、鎌倉街道が拓かれた鎌倉期には、これらのサークルを明らかに避け、その裾野をめぐる道筋がつけられていることから、街道をまっすぐに造成できず、迂回させなければならない摺鉢状の「山」あるいは「丘」が、正円形の上に残存していたのではないかと想定することができるのだ。

■写真上:サークルAの南辺にあたる、落合第二小学校の北側校舎。
■写真中上:1936年(昭和11)に陸軍が上落合上空で撮影した空中写真で、広角レンズの特性から、画像の四隅にいくにしたがい若干ゆがんでいることも考慮に入れる必要がある。
■写真中下:サークルAの拡大で、1936年(昭和11)現在(左)と現状(右)。戦後、宅地化がさらに進み、住宅の下に円弧は埋もれ当時の面影はほとんど見られない。
■写真下:サークルBの拡大で、1936年(昭和11)現在(左)と現状(右)。妙正寺川の整流化工事で円弧の南東側が大きく削られているが、中ノ道(鎌倉街道)の湾曲に面影が残る。