旅行や出張の帰り、電車の窓から見える景色で「やっと地元にたどり着いた」と、ホッとする風景がある。東海道本線だと、大磯の湘南平や馬入川(相模川)鉄橋、多摩川の六郷鉄橋、品川の八つ山橋・・・と数が多いのだが、新幹線の場合は八つ山橋が昔から印象深い。新幹線が八つ山橋や京浜急行の八つ山鉄橋をくぐると、「東京へ無事に帰れた」・・・と安心するのだ。
 わたしが子供のころ、八つ山橋は太い鉄骨を組み合わせた独特なアーチ状のデザインをしていて、この橋梁の姿がよけいに印象深く感じたのだろう。1985年(昭和60)にアーチ橋梁は姿を消したのだが、京急の鉄橋のほうは元のままのようだ。八つ山の海は、現在は埋め立てられて海岸線がはるか東へ遠ざかっているけれど、1954年(昭和29)には初代ゴジラが上陸した海岸として知られている。ゴジラが保安隊、あるいはできたての自衛隊と死闘を演じていたとき、八つ山橋にはいまだ赤い進駐軍向け「WELCOME TO TOKYO」の卑屈なネオンサインが光っていたのだろう。
 「八つ山」という当て字は、おもに明治以降の表現であり、江戸期の『江戸名所図会』には「谷山(やつやま)」、また尾張屋清七版の「江戸切絵図」には「谷ツ山」と採取されている。「谷」のことを「ヤツ」と発音する地域が、南関東の海岸線沿いであるのが、原日本語(アイヌ語に継承)の地名音の変節や、後世に当てはめられた漢字を考慮すると非常に興味深い。
 原日本語で「ヤトゥ(yatu)」Click!は「脇の下」、陸や丘へ入りこんだ谷(小谷)を意味するのだが、この「トゥ」という発音を「ツ」と聞き取り、「谷」1文字で「ヤツ」と発音しているのが東京や神奈川、千葉の海岸線沿いには多い。ところが、ほんの少し内陸に入ると、「トゥ」の発音を「ト」と聞き取り「戸」を当てはめて、「谷戸」と漢字2文字で表現している。海っぺりに住んだ人々と、やや内陸寄りに住んだ人々との間で、地域方言の差とみられる「トゥ」の変化ないしは転訛が見えて面白い。

 
 八つ山というと、すぐにも竹柴基水の芝居『神明恵和合取組(かみのめぐみ・わごうのとりくみ)』が思い浮かぶ。いわずと知れた「め組の喧嘩」Click!だ。この喧嘩は実際にあった事件を台本にしており、当時の町奉行や寺社奉行、はては勘定奉行まで巻きこんだ大きな騒動として、江戸期から広く知られていた。この芝居の序幕に登場するのが「八つ山下の場」で、品川の東海道沿いにあった料亭・島崎楼から帰る力士の四ツ車大八を、鳶の辰五郎が待ち伏せして襲う場面だ。
 江戸期の力士は傲慢な者が多く、町人よりも身分が上だと考えて横柄にふるまうことも多かった。め組みの若い火消しを、「鳶風情」と見下したのがケンカの原因だ。品川の海岸線は、燈火もなにもない漆黒の闇なので、芝居ではお互い手探りでケンカをするという、滑稽な「だんまり」手法Click!が用いられている。「モシ旦那、角力だって鳶の者だって同じ人間だ。そんなに安くしなさんな」という火消し辰五郎の言葉に、芝居が上演された明治以降の庶民の思いもこめられていたのだろう。現在でも、この芝居に使われる書割(かきわり)がそうであるように、八つ山下は彼方へとつづく海辺の砂浜で、沖には台場が見える風景となっている。
 東海道線は当初、渚あるいは海を埋め立てた線路土手の上を走っていたのだが、いまや行けども行けども海が見えてこない。ゴジラがやってきた1954年ごろも、埋め立てはかなり進んでいたが遮蔽物(高いビル)はまったくなく、いまだ潮の香りが強く漂っていただろう。現在は、この埋立地に品川駅東口をはじめ高層ビルや高層マンションが林立している。わたしは、東京大空襲Click!の話もさんざん親から聞かされて育ったけれど、関東大震災Click!や安政大地震Click!についても地域の記憶として吹きこまれている。だから、乃手Click!の比較的堅牢な地面の上に建てるならまだしも(それでも危険いっぱいだが)、地盤が脆弱な埋立地に高層ビルを建てるなど、狂気の沙汰としか思えない。
 
 故郷Click!が同じ小林信彦Click!の話を、『江戸東京物語』(新潮社編/2002年)から引用しよう。
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 関東大震災のあとで建てられた日本橋三越、日本橋高島屋----あの高さを限度と定めたのは当時の日本人の知恵である。(中略)/NHKのテレビ番組で超高層ビルの発案者を偉い人のように扱っていたが、いずれ、大地震がくれば、わかる。高速道路は崩れるか、火の海になるとぼくは思う。/関東大震災後の東京再建までは、江戸以来の知恵が生かされてきたのに、太平洋戦争後の高度成長で、すべてが消えた。いけいけどんどん、といういやな言葉があるが、そのままバブル経済まで突っ走り、いまや、どうしたらよいかわからないところまできた。(中略) 高層ビル、マンションの少なかった江東区にも、急に柱のようなものが多くなった。東京湾の花火見物もままならない。ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが。 (「東京原人-二十一世紀のつぶやき-」より)
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 大手建設会社のCMで、次々と建てられる高層ビルの映像を背景に、「止めるな。この国の、変わろうとする力を」というキャッチフレーズが入る作品がある。相変わらず土建国家の発想が抜けないのも哀しいが、地元の人間の話に耳を傾けず「増やそう。もっと大地震の犠牲者を」と言っているようで、近来にない最悪のCMだと思う。大江戸の恥はかき棄てClick!、万が一のときは「疎開」と称して故郷へ逃げ帰れClick!ばいいわけで、あとはどうなろうと知ったこっちゃないのかもしれないが・・・。

■写真上:品川にかかる東海道の八つ山橋と、京浜急行の八つ山鉄橋。わたしが子供のころは、アーチ状の印象的な橋梁だったが、「WELCOME TO TOKYO」のネオンはとうになかった。
■写真中上:上は、昭和初期と思われる『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の舞台写真。左から2代目・実川延若の四ツ車大八、7代目・市川中車の喜三郎、15代目・市村羽左衛門の「め組」辰五郎。下左は、1857年(安政4)に作成された尾張屋清七版の「芝三田二本榎高輪辺絵図」に採取された「谷ツ山」。下右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した品川駅界隈の空中写真。
■写真中下:左は、1950年前後の八つ山橋。右は。いまも保存されている旧・八つ山橋の橋柱。
■写真下:左は、八つ山橋の上から東海道本線などを望む。この下をくぐると、地元へもどった安堵感がひろがる。右は、品川駅東口に立てられた高層ビル群。