1928年(昭和3)3月2日午前10時56分消印の、佐伯祐三Click!から曾宮一念Click!に宛てたパリからの貴重な絵葉書が現存している。「Uzo SAHEKI. Boulvard du Montparnasse PARIS 14.」と書かれた葉書表の絵柄は、パリ郊外に建っていたらしい教会堂と墓地の写真。文面をわざわざスキャニングしてお送りくださったのは、静岡の藤枝にお住まいの江﨑晴城様Click!だ。江崎様には、今回の「佐伯祐三-下落合の風景-」展Click!では、曾宮夕見様Click!とともに佐伯イーゼルClick!や曾宮作品の貴重な画像Click!をご提供くださり、たいへんお世話になった。
 佐伯から曾宮へ宛てた葉書を見て、思わず「アアッ!」と叫んでしまった。佐伯の文面に驚いたからではない。この文面は、1935年(昭和10)に発行された『みづえ』11月号掲載の曾宮一念「佐伯と私」で紹介されており、わたしは1979年(昭和54)に出版された朝日晃・編『近代画家研究資料 佐伯祐三Ⅰ』(東出版)で、すでに目にしていた内容だった。佐伯の文面は、以下のとおりだ。
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 曾宮さん 私があまりごぶさたしてゐたのですつかりをこつてゐるでせう。何とぞまあゆるして下さい。ウソデナシニ気になりながら、貴兄の身体を気にしながら。自分も今少し身体が悪い。が大した事はありません毎日ブラブラしてゐます。ヲクさんによろしく。
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 わたしが驚いたのは上記の文面ではなく、曾宮一念への宛て名書きのほうだ。「東京市外下落合五二三」(!)・・・。曾宮アトリエの住所は下落合623番地であり、佐伯はなぜか誤って書いていることになる。当初は、「下落合六二三」と正しい住所を書いているにもかかわらず、あえて「五二三」と訂正しているのだ。その誤りの経緯と、佐伯の“加筆”の動きを想定・再現してみよう。
 (1)東京市外下落合六二三
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 (2)東京市外下落合五六二三
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 (3)東京市外下落合五六二三 (もしかすると六二三)
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 (4)東京市外下落合五六二三 (もしかすると六二三)
 ・・・と、都合3回にわたって宛て名書きの住所が訂正されていることになる。曾宮アトリエの住所が曖昧で、「六二三」なのか「五二三」だかわからなくなってしまい、宛て名書きに迷った・・・と単純に解釈できるのだけれど、それだけでは済みそうもない重大な意味合いを含んでいるように思える。なぜなら、下落合523番地に住んでいた人名に「佐伯」が収録されているからだ。
 
 わたしが、下落合523番地の住所を見て鳥肌が立ったのは、1926年(大正15)に制作された「下落合事情明細図」Click!の同所に、あらかじめ「佐伯」の文字を見い出していたからなのだ。下落合では、佐伯の苗字はめずらしい。だから、ことさら「事情明細図」の「佐伯」という文字に目がとまり、下落合523番地を記憶していた・・・というわけだ。佐伯アトリエの住所は、下落合661番地Click!のはずだった。しかし、「下落合事情明細図」で同所は「酒井億尋」邸となっていて、「佐伯」の名前が採取されていない。前年に作成された、「下落合及長崎一部案内」(通称:出前地図)Click!には、同所の敷地Click!は南北に分割され、北側が酒井邸、南側が佐伯邸と収録されているにもかかわらず、翌年の「下落合事情明細図」には記載されず、明らかに収録漏れとなっている。
 今日的な目から見ると、「事情明細図」は地図制作者が1軒1軒訪ね歩いて、住民名を丹念にひろっているように思えるが、すべての区画においてそのような取材法がとられていたのだろうか? 表札が出ていない家、あるいは借家が並んでいる区画では、近隣の住人や大家・管理人などによる聞きとり取材で、住民名を収録してやしないだろうか。あるいは、既存の住民名簿や借家人名簿などを元に、ある区画の家々の住民を規定しやしなかっただろうか? それらの名簿や資料は、当然リアルタイムのものとは限らず、少し前の情報を含んでいた可能性さえあるだろう。また、近隣の誰かに訊ねたところ、善意のはずだったのに誤った情報を、あるいはすでに引っ越したことを知らずに古い情報を、取材者に教えてしまったケースもあったかもしれない。
 
 
 下落合523番地は、目白通りからほんの少し近衛町Click!へ入ったあたりの敷地だ。現状でいえば、イタリアンレストラン「KAZAMIDORI(風見鶏)」の位置に相当する。佐伯祐三は、なぜ「六二三」と書くべきところ、「七二三」でも「四二三」でもなく「五二三」と、「もしかしたら六二三」の書き込みも打ち消して確信的に書いたのだろうか? この下落合523番地という住所に、なんらかの心憶えないしは既知感があったがために、曾宮アトリエの623番地と混同してしまい、どちらの地番が正しいのか迷ってしまったのではないか?・・・、そのような感触が強くするのだ。すなわち、「下落合事情明細図」の523番地に採取された「佐伯」とは、下落合661番地にアトリエと母屋が完成する前に借りていた、佐伯夫妻の借家だったのではないかと想像してしまうのだ。
 「下落合事情明細図」は一見、1926年(大正15)現在の住民名を収録しているように見える。だが、詳細に検討すると、住んでいるべきはずの住民名が漏れていたり、情報が古いままだったりする箇所も散見される。それは、個々の家々をまわって住民名を逐一リアルタイムで特定・採取していったというよりも(もちろん新開地エリアなど、中にはそのようなケースもあるだろう)、近隣へのまとめ取材や既存の資料活用などにより、取材の省力化や制作期間の短縮などが図られたため、多少の齟齬が生じている可能性を否定できない。近所で取材した記憶情報、または住民名簿などが数年前の古いものであったとしたら、佐伯夫妻は新築の下落合661番地の家ではなく、借家住まいのままの番地で収録されてしまった可能性さえあるのだ。
 
 旧・下落合地域には、葛ヶ谷Click!(現・西落合)にあった飛び地まで含めると、2350番地までの旧地番が存在している。佐伯は、曾宮宛ての絵葉書に下落合623番地と書くべきところ、よりによって「下落合事情明細図」に「佐伯」と収録された523番地の住所を書いてしまった。こんな「偶然」は、おそらくめったに存在しないだろう。この地番には、なにかしらの憶えがあり、フッと記憶の中から浮き上がってきた、どこかで馴染みの地番だったのではないだろうか。
 もっとも、“2350分の1”の「偶然」と表現するのは少々オーバーだ。佐伯は、自身のアトリエの近所に住んでいた曾宮の番地が、4桁ではなく3桁であることを知っていただろうから・・・。それは、曾宮アトリエのすぐ北側に住んでいた里見勝蔵Click!が、下落合630番地だったことを明らかに認識しており、同地番の里見宛てにパリから絵葉書を投函していることからもうかがえる。

◆写真上:下落合523番地の住所で、佐伯祐三がパリから曾宮一念宛てに投函した絵葉書。曾宮一念の宛て名のショルダーに、わざわざ「洋画家」と書いているのがおかしい。
◆写真中上:左は、番地「五六二三」の拡大。右は、「(もしかしたら六二三)」の拡大。
◆写真中下:1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる、上左は下落合661番地、上右は下落合523番地。下左は、1925年(大正14)の「豊島郡長崎村豊多摩郡落合町」にみる下落合523番地。下右は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる同番地界隈。
◆写真下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合523番地の「佐伯」宅。右は、同番地の現状でイタリアンレストラン「KAZAMIDORI(風見鶏)」が営業している。