以前、小川薫様Click!からお借りした、出征兵士を見送る壮行会Click!の写真を掲載したが、その場所が改めて特定できた。昭和初期に、長崎町(のち椎名町4丁目)のバス通りClick!(練馬街道)沿いにあった、「町内運動場」と呼ばれた空き地だ。ちょうど、出征兵士の写真にもとらえられている「長崎市場」と映画館「洛西館」が建っていた位置の、道をはさんで東北側の敷地だ。
 この記事を読んでくださった、五郎久保(五郎窪)稲荷の五若会会長である小出幹雄様より、お知り合いの本多薬局様を介して向橋千鶴子様がお持ちだった、この敷地で開かれていた町内運動会の様子を撮影した貴重な写真をお送りいただいた。その画面を見ると、左手に出征兵士の壮行会写真に写るのと同一の建物、すなわちシャレた意匠の「長崎市場」と、道路を挟んだ右手に「多田紙店」が確認できる。映画「洛西館」は、「長崎市場」のさらに左手(南側)ということになる。現在の街中でいうと、アパート「トキワ荘」が建っていた、すぐ南側にあたる一帯だ。
 

 そして、小川様の写真でとらえられた目白通りの祭りの様子Click!、特に神輿の由来もハッキリした。この神輿は長崎神社Click!(長崎氷川社)礼大祭のクシナダヒメ神輿ではなく、東長崎駅の近くにある五郎久保稲荷の五若神輿であり、長崎神社の祭礼と同期して街中へ繰り出していたことも判明した。現存する五若神輿は、1934年(昭和9)に氏子の有志たちによって製作されており、総ケヤキによる白木造りの豪華な仕様だ。したがって、小川様の祭礼写真は五若神輿が完成したあと、つまり必然的に1934年(昭和9)以降に目白通りで撮影されたものということになる。五郎久保稲荷の五若神輿は戦災をくぐり抜け、現在でも祭日には街中を練り歩く様子を目にすることができる。五若会Click!のWebサイトから、五若神輿の仕様や祭りの様子を引用してみよう。
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 力強く張り出した蕨手(わらびて)の屋根は燦然と輝く鳳凰をいただき屋根地は漆の梨地仕上げとなっており、飾り綱は正絹で深みのある金茶色をしております。欅の生地をそのまま表した胴体は内側に金箔を施し、一刀彫の見事なものであります。/新調されてからは長崎神社の例大祭には毎年渡御をしておりました。太平洋戦争が始まり神輿を出すことができなくなりましたが、戦後間もなく又神輿が出るようになりました。しかし戦後日本の経済発展により自動車の増加、担ぎ手の問題等で昭和29年より神輿が出せなくなってしまいました。/昭和50年代に入ると五若神輿を出そうと言う声が多くなり、昭和51年に五若会が結成され神輿を23年間無傷で守り通した氏子総代会様の了解のもとに昭和52年9月、23年ぶりに渡御し現在に至っております。
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 五若会の小出様からは、ほかにも地元の篠正一様が大切に保存されていた、昭和初期の祭りの様子を撮影した写真類をお借りすることができた。中には、地元の大家である岩崎家の門前で撮られた、子ども神輿の写真も見える。下落合の氷川明神社の祭礼でも同様だが、地域の代表的な邸宅では、神輿をかつぐ連中(れんじゅ)に茶菓や酒をふるまうのが通例だった。下落合では、相馬家Click!と徳川家Click!などがその役割りを担っている。長崎では、種苗園や植木農園などを経営する大きな岩崎家が、そのような接待をしていたものだろう。
 その後、小川様に取材を重ねたところ、戦時中に撮られた防空壕造りClick!の地点も明らかになった。「長崎市場」から、少し北側へ歩いたところにあった空き地だ。おそらく、1944年(昭和19)の暮れか翌年の早い時期に掘られたものと思われる。戦後、防空壕は埋められたものの、空き地の状態は長くつづき、防火用水の貯水場として使われていたようだ。小川様は、その空き地の前を通るたびに、「ここには戦時中、防空壕があったんだよ」と母親の上原とし様Click!から聞かされて育っている。きっと、夫の上原亀吉様Click!が建築にたずさわっていたので、ことに印象深かったのだろう。

 
 小川様と五若会の小出様の双方に取材していると、特に祭りの写真などにとらえられた人物に共通の顔が見つかり、とても面白い。祭日というと、必ず勇んで登場してくる有名な“お祭り男”がいて、小川様の写真にも小出様を介してお貸しいただいた写真にも写っているのだが、まるで役者のような化粧をして記念写真に残る、その人物については、また、別の物語。

◆写真上:「町内運動場」で行なわれた昭和初期の運動会。(向橋千鶴子様提供)
◆写真中上:上左は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」にみる町内運動場。上右は、同一の場所で行なわれた出征兵士の壮行会の様子。(小川薫様提供) 下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同町内で、「町内運動場」の北側には大きな建物が見えている。
◆写真中下:祭礼の日に岩崎邸の門前で撮影された子ども神輿の記念写真。(篠正一様提供)
◆写真下:上は、長崎市場の北側に造られた大きな町内防空壕。(小川薫様提供) 下左は、1934年(昭和9)に製作された直後の五郎久保稲荷・五若神輿。下右は、1953年(昭和28)ごろに撮影された五若会の神輿で、現在の南長崎3丁目あたりの情景。(ともに篠正一様提供)