落合村の財政増収と安定した経営のために、1923年(大正12)に村長だった川村辰三郎Click!は、当時の最先端をいくモダンな住宅街の建設を推進していた。村の後援を受けた箱根土地Click!や東京土地住宅Click!は、ある場面ではかなり強引な事業や取り引きを行なったのだろう。目白文化村Click!が開発される以前、同地域に土地を所有していた旧地主の方々の中には、土地を売らないことでさまざまな圧力や嫌がらせを受けた人がいる。第一文化村の事例だが、いまでも西武デパートや西武電車は絶対に利用しない・・・という、子孫の方がおられるので、村政を味方につけた箱根土地は、かなりあくどい違法スレスレのこともやっているようだ。
 当時の読売新聞には、箱根土地の事業や堤康次郎Click!へのあからさまな“阿諛追従”がことさら臭う。堤が同紙の株主か、あるいは広告主としての得意先だったのだろうか? 1923年(大正12)7月15日に発行された読売新聞に掲載の、「市を取巻く町と村(14)」から引用してみよう。
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 『文化村』は下落合のもと不動谷といふ熊笹や茅や葭の茂つた荒れ果てた渓谷を中心にして拓いたものでこの谷の流れをせきとめて大きな池を造り盛んな土工をやつて巧に自然をとり入れた二万七千坪といふ堂々たる住宅地にしたのは一に堤康次郎氏の力にある、しやれた洋館が大自然の中にぽつぽつと建つて行く様な此宅地に会社が電燈や電熱を配給する為に大仕掛けな設備をしたり私設水道工事をしたりしてあるのを見ると自然の造つた西郊武蔵野の原と人間の造りつゝある大東京との接触地として一種の新しい気持に打たれる、この文化村は坪五十円から六十五円で分譲してゐるが堤氏は大分早くから此辺に目をつれたもので府営住宅の建つてゐる処なども堤氏から府へ提供したものである、落合村では長い事村の開発に尽して呉れたといふので村の功労者として最近銀盃を贈り表彰した。
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 この記述には、ウソが混じっている。箱根土地への、一面的な取材のみにもとづいて記事を書いているのだろう。目白文化村が開発された前谷戸は、「熊笹や茅や葭の茂つた荒れ果てた渓谷」などではなく、大正時代の前半まで果樹園や田畑が拓かれ、落合大根Click!をはじめ豊かな農作物が収穫されていた。また、近郊農家や住宅、別荘などもすでに散在していたはずだ。それは、もともと本家が下落合にあり、淀橋で野菜や果実の仲買人をしていた父を持つ小島善太郎Click!の証言にも見え、また当時の地図の記号類を参照しても明らかだ。特に前谷戸の谷間には、豊かな湧水を利用したらしく一面に果樹園が拡がっていた。おそらく「荒野」を開発してやったのだ・・・という箱根土地側による恩着せがましい、当時からの意図的な“付会”だろう。
 また、堤康次郎と落合村とのつながりを考慮すれば、「不動谷」Click!の名称を目白文化村の初期開発ネームである「不動園」(のち箱根土地本社の庭園名)として活用するために、江戸期から大正初期までつづいていたとみられ、また1960年代になっても付近の住民たちの間や、新宿区教育委員会の学芸員の間にまで呼称Click!として意識されていた、青柳ヶ原Click!(聖母病院)の西側の谷戸名を400mほど西へ「移動」Click!させることなど、朝飯前だったのではないかと思われる。天祖神の社(やしろ)を経て、長崎村の不動堂Click!の方角へと谷戸が向き、そこへ通じる江戸期からの道筋が通っていた谷間の名称が、大正中期を境にどんどん曖昧化していく。「どうして不動谷は西へ行っちゃったんでしょうね?」という、古くから下落合に住んでいる方の疑問は、そのまま箱根土地の開発ネームの疑義へと、はたして直結するのではないだろうか。
 
 冒頭の写真は、1923年(大正12)の7月に撮影された目白文化村の写真だ。目白文化村に興味がおありの方なら、ひと目見てどこの街角だかすぐにおわかりだろう。第一文化村の二間道路から、道なりに北東の方角を向いてシャッターが切られている。正面から左手に見えているライト風の建築が、第一文化村でも最大の敷地(300坪)を有していた神谷邸Click!だ。近くの中村邸Click!と同様に、河野伝の設計デザインという伝承が残る。また、神谷邸の東(右手)の並びに建っていた、のちに会津八一Click!の文化村秋艸堂Click!となる安食邸Click!が、いまだ建設されておらず空き地となっている。したがって、安食邸予定地の北側へ桑原邸が建設される以前に、箱根土地がモデルハウスClick!として建てていたとみられる、やはりライト風の住宅が見通せている。
 この街角の様子は、まったく同時期の同年7月に、東京朝日新聞のカメラマンも逆の角度から撮影しており、以前に前谷戸の埋め立て時期の記事Click!でもご紹介している。また、1925年(大正14)に発行されたあめりか屋Click!の機関誌的な存在である『住宅』8月1日号(住宅改良会)には、2年後の同じ街角Click!を撮影した写真が掲載されている。やはり夏に撮影された第一文化村なのだが、その写真を見ると、すでに安食邸が完成しているのが見えるので、テニス好きな同家が自宅を建設したのは、同村でもかなりあとの時期だったらしいのがわかる。
 
 読売新聞の「市を取巻く町と村」シリーズは、地価に関するかなり詳細な価格情報を地域別に詳しく載せており、この特集記事自体が東京市近郊を開発する不動産業界とのタイアップで書かれた“特集”ではなかっただろうか? 落合村でいえば、東京土地住宅への取材内容は希薄だが、落合村当局と箱根土地への取材は、かなり濃厚に行なわれている印象が強い。では次回は、東京土地住宅が開発を進める、1923年(大正12)夏の「アビラ村」(芸術村)Click!について見てみよう。

◆写真上:1923年(大正12)に撮影された、第一文化村に通う二間道路沿いの神谷邸。
◆写真中上:上左は、神谷邸を渡辺邸予定地(?)の空き地から眺めたところで矢印が撮影方向。上右は、1925年(大正14)の夏に撮影された同文化村で矢印が撮影方向。すでに、安食邸が建設されているのがわかる。下は、まったく同時期に東京朝日新聞が北側の三間道路から撮影した第一文化村で、矢印が桑原邸予定地に建っていた箱根土地のモデルハウスとみられる建物。
◆写真中下:左は、箱根土地が発行した文化村絵葉書にみる神谷邸とモデルハウスで矢印が撮影方向。右は、第一文化村に残る当時の門柱や階段と二間道路の現状。
◆写真下:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる撮影ポイント。右は、記事中の堤康次郎。