8月17日の深夜、このブログへの訪問者が300万人を超えた。東京23区内の全人口の、約40%近いこの数値を考えると、改めて茫然としてしまった。茫然自失でめまいがしてしまったので、300万人めの方への記念品はご容赦いただきたい。(爆!) 普段はあまり書かないのだけれど、このブログをやっていて日ごろから想うことや感じることを、つれづれとめどなく書きとめておきたいと思う。

 以前、慶應大学へお邪魔したときの記事Click!にも書いたが、非常に限定された地域をテーマにしたメディアであるにもかかわらず、記事にしたくなる課題やエピソードが尽きることなく、一向に先が見えてこない。当時、手元にある資料や集まった情報の10分の1ぐらいしか書けていない・・・とお話したけれど、現在も状況はまったく変わっていない。同時に、いまだ地域のほんの上っ面(うわっつら)しかなぞっていないという感覚も当時と変わらない。ひとつのテーマを取り上げて取材すると、それに関連した資料や情報が新たに3つも4つも集まってくる。
 これは、別に落合地域(あるいは江戸東京地方)でなくても、全国いずれの地域でも同じ現象が起きるのではないかと思う。あるテーマに探りを入れていくと、いくつか別のテーマが待ちかまえてでもいたように浮上してくる。それらを追いかけはじめると、今度はそれぞれのテーマごとに別の課題が見えはじめ・・・という、一種の連鎖反応とでもいうべき現象だ。取材が芋づる式に拡がっていくので、わたしはこれを芋づる型物語取材とひそかに名づけている。
 芋づる型が、同じレイヤを水平方向へ拡がるのに対し、まるで地面を掘り起こしていくような垂直型の取材や調査もある。これも、初期のころ記事Click!に書いたことだけれど、落合地域というひとつのプレパラートをドリルダウンしていくと、期せずしてより大きなテーマの地層へとぶつかり、この国の巨大な歴史そのもの=「日本史」レベルのテーマへとぶち当たってしまうという現象だ。落合地域に堆積している歴史を掘り起こしていくと、芋づる型とはまた異なり、テーマや課題が深層へ向けてネズミ算式に増えていく・・・というような、物語の深淵をのぞきこむことになる。地下茎がどこまで深くつづいているのかわからないこの現象を、わたしは自然薯(じねんじょ)型物語取材とひそかに呼んでいる。いつかの記事で、小川紳介監督の記録映画『ニッポン国古屋敷村』(1982年)の例を出したけれど、いずれの地域でも芋づる型、あるいは自然薯型の現象が見られるにちがいない。
 
 現代に伝わる、そこにある“モノ”に改めて気がつき、あるいはメルクマールとして残された“モノ”にふと気をとめるとき、さらに記念としてピンでとめられた“モノ”をジッと意識的に凝視するとき、そこから聞こえてくるのは、そこから紡ぎだされてくるのは気が遠くなるような、めまいを起こして倒れそうになるほどの、膨大な物語の連鎖だ。ちょっと古いけれど、2000年に出版された瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)から、不思議な博物館の少女・美宇(みう)の言葉を少し長いが引用してみよう。
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 ミュージアムにはね、物語が必要なの。(中略) 昔の人は、集めたものをたくさん部屋の中に飾っていたでしょ。お客さんが来たらそこに案内するの。みんなが見たことがないようなものをいっぺんに見せて、驚かせるの。それからどうすると思う? お話を始めるのよ。あそこにある剥製は、何という国に行ったときに仕留めたもので、向こうの貝殻は何という船が太平洋を航海したときに集めたもので、あそこの太鼓は何という島の人からもらったもので・・・・・・そんな具合にお話を始める。みんなそれをどきどきしながら聞くの。主人のお話を聞いているうちに、みんなはそのコレクションの凄さがわかってくる。さっきまではただの変てこなものにしか見えなかったのに、だんだん生き生きと輝いて見えるようになってくる。それが物語の力。集めたものは、ただ見せるだけじゃだめなの。どうして展示されているのか、どうして集められたのか、どうしてそれが大事なのか、そういったことが説明されて、わたしたちは初めてその価値がわかる。初めて楽しめる。(後略)
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 ミュージアムを「街」や「地域」、「地方」に置き換えても、本質的にはまったく同じだと思う。ただ単に記念物が街中に置かれ並べられているだけでなく、そこで生きてきた人々の物語が紡がれなければ、現に生きている人々の物語が語られなければ、また、いまも残されている“モノ”の物語が聞こえてこなければ、あるいはすでに消えてしまった“モノ”についての物語が受け継がれなければ、そこがどのような「凄さ」をもったところなのかがわからない。並べられた記念物は、単なる「変てこなもの」にしか見えないのだ。美宇の言葉を読んでいたら、誰かが「街は博物館だ」Click!と表現していたのを思い出した。別に落合地域や江戸東京地方に限らない、人々が暮らしてきたあらゆる地域についても、まったく同様のことが言えるのではないか。
 もうひとつ、記事を書くとき気にとめていることがある。それは、難しいテーマの内容であっても、難解な言葉や専門用語、もってまわった言いまわしはできるだけ避け、誰にでも理解できるフツーの言葉で表現すること・・・という基本的な“お約束”だ。そこには、「難しいテーマを専門用語や難解な言葉をつかって表現するのは比較的たやすいが、難しいテーマを誰にでもわかる言葉をつかって表現するのは至難のワザだ」・・・という、文章表現上の理想があるからだ。これはわたしの考えではなく、学生時代に世話になったいまは亡きゼミ論(卒論)の教授に、繰り返し教えられたことだ。
 
 竹田助雄Click!が、『落合新聞』の発行をハナから50号までと限定してスタートしたのは、夫人からの「圧力」があったとはいえ正解だったと思う。これまで書いてきたボリュームをざっと計算したら、400字詰め原稿用紙に換算するとおよそ8,200枚。プルーストの『失われた時を求めて』(1913~1927年)の3分の1強に当たる量になっていた。それだけ書いてもこの程度で、表層レベルの内容しかすくい取れていないのだ。あるところで思い切ってフェーズを区切らなければ、栗本薫の『グイン・サーガ』(1979~2009年)状況になってしまうのは目に見えている。
 日本全国どの地域でも、一度物語の世界に足を突っこんでしまうと、まったく同じことが言えるのかもしれないが、わたしの「落合物語」もミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979年)ではないけれど、どこまでいっても底が知れない“危うい”様相を呈してきていると思うのだ。

◆写真上:1957年(昭和32)1月ごろに下落合の第二文化村で撮影された、病気で倒れ首相を辞任直前の石橋湛山Click!邸前の様子。取材のクルマが路上にずらりと並び記者たちが詰めているが、近所の目白文化村Click!の子供たちも何がはじまるのかウキウキしながら集まっている。
◆写真中上:左は、石橋邸前の現状。右は、南側のテラスで静養する石橋首相を捉えたショット。
◆写真中下:左は、大磯の相模国総社・六所神社に伝わる、下落合でもお馴染みのクシナダヒメ像(平安期)。右は、わたしが最近取材で愛用しているフジオプロの「バカ田大学」ノート。表ニには校歌も載っていて、「♪かがや~くわれら~のバカぶ~りみろよ~♪」とつい唄いながら下落合を歩いている。w ちなみに、このあたりでは早稲田大学Click!とカフェ杏奴Click!で販売しているらしい。
◆写真下:左は、下落合を流れる神田川。右は、雨で小川が濁流となった昭和初期の妙正寺川。