では、相馬家はどのようにして御留山Click!で「北辰七座」思想を貫徹し、妙見信仰による堅牢な守護体制を完成させたのだろうか? それには、江戸東京地方の地図ではなく、関東地方の地図、いやもう少し範囲の広い地図を用意しなければならない。
 前述の中で、わたしは「レイライン」という言葉を三度つかった。でも、下落合とその周辺、さらに江戸東京地方のポイントをマークして現れるラインは、レイラインと呼ぶには範囲が狭すぎる。本来、レイラインは天文的な星の運行なども意識されたもっと大規模なもので、このような狭い地方のラインを指すのではない。世界的に有名なレイラインとしては、太陽の運行を正確にトレースする「太陽の道」が知られている。だが、日本はもともと面積が狭く山地が多いのと、おもに神々や仏教をベースとした呪術的な結界の役割りを果たしているラインの例のほうが多いようだ。もっとも、古くは縄文時代から想定されている星座ラインは、この限りではないのだが・・・。
 でも、相馬家によって下落合の御留山が意識されたのは、地理学が未発達な時代ではなく、少なくとも全国各地の地形図が整備されていた明治末のことだ。だから、より大規模な結界線(本来の意味でのレイライン)が意識されているのではないかと疑っても、なんら不自然ではないだろう。そのような観点から、より広い範囲を眺めてみると、ゾクゾクするようなラインが見えてくる。
 まず、神田明神を起点として、高田氷川明神から御留山を通り、江古田氷川明神から豊玉氷川明神へと抜けていく長い直線から見ていこう。わたしは当初、ラインを西北西へとまっすぐ延ばしていったが、特に気になるポイントは見つからなかった。ところが、神田明神から逆に東南東へと延ばしていったところ、あるポイントへぶつかったのには愕然としてしまった。
 ●豊玉氷川-江古田氷川-【御留山】-高田氷川-神田明神-将門七天王塚(千葉大医学部)
 千葉大学医学部のキャンパスと、その周辺になにがあるのかといえば、横たわっているのは将門の象徴である北斗七星、将門の聖地である「七天王塚」Click!なのだ。神田明神から東南東に出たラインは、浦安市の京葉線・新浦安駅の南側をかすめ、そのまま東京湾を横断して千葉市に上陸すると、JR千葉駅の南側700mほどのところを通って、地図では「文」の記号で表現されている千葉市中央区亥鼻の千葉大医学部キャンパスへとぶち当たる。下落合の御留山は、神田明神と高田氷川を経由して将門七天王塚から、ストレートに「気」を呼びこんでいることになるのだ。このたった1本のラインのみを見ても、相馬家は下落合という土地柄にことさら注目したのだと思えてくる。

 
 壮大なレイラインの存在に「気」がついたわたしは、他のラインにももっと大規模なしかけが施されているにちがいないと確信した。一見、将門と出雲神による江戸東京地方ならではの結界と見えていたラインは、おそらく間違いなく妙見神にも深く関わりのある施術が行なわれているだろうと・・・。次に注目したのは、神田明神ラインとともに長大な直線を描いている、麻布氷川明神のラインだ。麻布氷川明神を起点に、御留山を抜けて水道塔Click!があった大谷口氷川明神を経由し、板橋区東新町の氷川明神へと抜けていく、南南東から北北西へと延びる結界線だ。
 このラインを、北へ北へとたどっていくと荒川をわたり、さいたま市美女木あたりを抜け大宮を右に見て、行田市から太田市の上空へと関東平野を北上して、赤城山の東側をかすめる。さらに北上をつづけると、新潟県の小千谷市の真上を通り、ついには出雲崎へとぶつかることになる。「なんだ、やっぱり出雲つながりのラインなのか」・・・と、わたしは一瞬ガッカリしたのだが(通常なら驚くところだが、もはやちょっとやそっとのことでは驚かなくなっていた)、念のためにラインを日本海上へと延ばしていった。そして、ついに予想していたものにぶち当たったのだ。ラインは佐渡島に上陸すると、金北山の南西約2.5kmのところにそびえる、妙見山(1048m)へとぶつかっていた。
 ●麻布氷川-【御留山】-大谷口氷川-東新町氷川-出雲崎(新潟)-妙見山(佐渡島)
 もうひとつ、気になる長大なラインが存在している。下落合氷川明神を起点に、沼袋氷川明神を経由して東伏見氷川明神へと、西へまっすぐに抜けていく長いラインだ。このシリーズ記事の最初にも書いたけれど、お隣りの山梨県は妙見信仰があふれている土地柄だ。だから、ほぼ真西へ延びていくレイラインには、なんらかの意味が付与されていると推定しても不自然ではない。さっそく、地図で西への直線を延長していくと、福生市の牛浜駅の南あたりを通り、やがて山梨県との県境にある檜原村の西端、三頭山へとぶつかる。
 その先を見たわたしは、すぐに絶句してしまった。妙見信仰のオンパレード、まるで妙見「銀座」とでも表現すべき地域に、下落合から延びたラインは入りこんでいく。まず、直線が大菩薩嶺(2057m)に突き当たっているのにすぐ気がついた。この大菩薩とは、もちろん「妙見大菩薩」のことだ。すぐ南側には、妙見の頭から大菩薩峠も控えている。「そうか、このラインは大菩薩嶺をめざしたのか」・・・と一瞬納得しそうになったのだが、妙見大菩薩はあくまでも仏教の概念であり、江戸期以前から習合しているとはいえ厳密な意味での“神格”ではない。このような仏教色が色濃いポイントへ、はたして相馬家は下落合から直接「気」脈を通じるのだろうか? 不審に思い、念のために大菩薩嶺で止めたラインを、そのまま西側へと延ばしつづけることにした。そして、山梨市の上を東西に横断したところで、ある重要なメルクマールへとたどり着いたのだ。
 山梨の、西保中地区にそびえる妙見山(1358m)だ。この山は、古くから「星下り」の伝承が語り継がれてきている特別な聖山なのだ。おそらく、流星群が妙見山の方角に降りそそいだのがきっかけとなり、形成された伝説なのだろう。「星下り」の山とは、星からの「気」を浴びている聖域中の聖域ということになる。つまり、星々からの「気」流が下落合の御留山へととどくように意識されたのが、妙見山から下落合氷川明神、あるいは多少の地理的な誤差を考慮すれば御留山へと、ストレートに敷かれたレイラインの役割りだったということになる。
 ●下落合氷川【御留山】-沼袋氷川-東伏見氷川-大菩薩嶺(妙見の頭)-妙見山(星下る聖山)

 東南東からは常に将門(先祖)の「気」を、北からはおそらく金(清廉)の「気」を、そして西からは宇宙の星々の「気」をスムーズに呼びこめる位置に、御留山の相馬邸Click!は建っていた。いや、この言い方は逆で、それらの聖域から好「気」を呼び寄せられる下落合の御留山が、相馬家のどなたか、あるいは依頼された巫(卜師)によって「発見」され、あえて選ばれていると思われる。そして、将門あるいは出雲神の力を借りて形成された結界は、下落合の御留山ひいては目白・落合地域全体に、いっさいの邪気や魔を寄せつけないほど、強力なバリアを形成したことがうかがえる。
 1939年(昭和14)に、相馬家から御留山を購入した東邦生命(第一徴兵)の4代目・太田清蔵Click!は、おそらく御留山の謂れを相馬家から聞かされていたか、あるいは自身でも調べて壮大な結界線あるいはレイラインの存在を、薄々知っていたのではないだろうか? だからこそ、相馬邸の母屋解体で出た「七星」礎石Click!を、そのまま廃棄することなく母屋南側の空きスペース(現・財務省官舎跡地)へ、規則的かつていねいに並べて保存したのだろう。それらの礎石は、東邦生命による戦前からの宅地開発でも、また大蔵省(現・財務省)による公務員住宅の建設工事でも、動かされることはなかった。現存する、直線状に美しく並べられた「七星」礎石群は、期せずして東西方向を指し示している。その西端は、いまだに山梨の大菩薩嶺から妙見山の方角を向いていることになる。つまり、御留山は現在でも北斗七星神(妙見神)と、江戸東京地方の多彩な地主神である出雲神、そして将門による強力な結界や「気」脈の中心に位置していることになるのだ。
 できれば、この「七星」礎石群は、おとめやま公園拡張整備Click!の際には、4代目・太田清蔵が1941年(昭和16)ごろの母屋解体の際に「気」づかいをみせたように、無理に変形させて動かしたりバラバラにしないほうがいいのかもしれない。計画されている子供たちのための広い「原っぱ」の中に、そっと並べて残しておいたほうが、御留山あるいは落合地域全体にとっても、またとない好「気」をもたらしてくれる存在でありつづけるのではないだろうか? 東邦生命の宅地造成工事の関係者が、そして大蔵省官舎の建設業者が「北斗七星」礎石に手をつけなかったのは、(旧・大蔵省は大手町の将門塚Click!=旧・神田明神跡で、すっかり懲りていたのではあろうけれど)、それらが担っている役割りを熟知している人物がいたような「気」配を、わたしは強く感じる。そして、並べられた「七星」礎石群は、いまでも変わらずに七天王塚の「気」を映しつづけていると思われる。この夏、御留山という地勢や地味を、「巫術」的な側面から調べつづけてたどり着いた、それがわたしの結論だ。
 出雲神に将門に妙見神と、おそらく江戸東京地方では最強の「気」が降りそそいでいる区画のひとつと思われる落合地域には、かえってふさわしい存在のような「気」も強くするのだ。「七星」礎石を掘り返して、どこかへまとめてしまうというようなことは、少なくとも妙見神の「星下り」の「気」流を破壊することになる。気のせいといわれればそれまでなのだが、そう、まさにわたしは「気」のせいでこれを書いている。そして、「気」配を感じたりするわたしの「気」のせいは、これでもけっこう当たるのだ。

 
 さて、このような巫(卜)術や呪術などの世界へ足を踏み入れて、「なにかに祟られたり、バチが当たったらどうするの?」と、ある方から言われてしまった。神々の中でも、妙見神や出雲神は超強力でおっかない神々であり、ましてやそこに「祟り神」の最高峰とまでいわれる将門までが絡んでいるからだ。たとえば、これが真言立川流や荼枳尼天(だきにてん)などが顔をのぞかせるテーマであれば、わたしもちょっとはビビッて怖くなり、多少「気」味が悪くなったかもしれない。いや、いろいろな調査をしたり取材したりするのに、おそらく二の足を踏んでいただろう。でも、このシリーズ記事の途中でも書いたように、わたし(の家)は代々、江戸東京地方の総鎮守・神田明神の氏子であり、下落合では落合総鎮守・氷川明神の氏子でもある。登場した神々は、薩長の明治政府にとってはことさら「気」味が悪く、恐怖の対象でしかなかったのかもしれないが、わたしにとっては昔から親しみやすく、また馴染み深い存在であり、「気」味のいい神々ばかりなのだ。すなわち、「祟られる」とか「バチが当たる」とかいうおかしな感覚自体が、すでに関東地方を「地場」とする視座(史観あるいは宗教観)ではないように、江戸東京地方の地元ではない他の地域からの“借りもの”(おそらくここ100年余り)の眼差しであるように、わたしには思えてしまうのだ。
 この地方における将門を含めた地主神である出雲の神々にとってみれば、わたしはどこまでいっても神々の“味方”の側であり、彼ら(彼女ら)に弓引き仇なす“敵”ではない。それは言い換えれば、関東というわたしにとってかけがえのない「地場」の、どこまでいっても“味方”なのだよ・・・という、わたしの史観や「宗教」観(のようなもの)へも、そのままストレートに結びついてくる感覚なのだろう。落合地域を、そして徳川家が「鷹狩り場」として立入禁止にした御留山という土地を、「巫術」的な物語の側面からみるとこのように解釈できてしまうのだが、1960年代末の当時、ブルドーザーの田中角栄率いる旧・大蔵省もヤバイと手をつけかねたとみられる「七星」礎石を、さて・・・どうしましょ?

◆写真上:「七星」礎石には、置かれるときに北斗七星が意識されたようなフォルムもある。
◆写真中上:上は、千葉大学医学部(将門七天王塚)へとぶつかる神田明神将門ライン。下左は、新潟県の出雲崎から佐渡島の妙見山へとぶつかる麻布氷川明神を起点とした北北西妙見ライン。下右は、冬枯れの「七星」礎石群で東から西を向いて撮影したところ。
◆写真中下:山梨の妙見の頭をかすめ、大菩薩嶺から「星下り」伝説が残る妙見山へとぶつかる、下落合氷川明神(ないしは御留山)を起点とする西進妙見ライン。
◆写真下:上は、現在の財務省官舎跡地の側から眺めた1913年(大正2)現在のめずらしい相馬邸母屋(居間)の写真。(相馬彰様Click!提供) 下左は、明らかに「星石」と見立てられたような球状の石も現存している。北極星に見立てられ、邸のどこかに埋められた北辰星石だろうか? 下右は、この夏ずっと手放せなかった国土地理院の地図類と方位磁石で、相馬邸の「七星」礎石の上にて。念のため方位磁石には、巫(卜師)が使用する十二支・八卦対応のものを使用している。