大正末から昭和初期にかけ、ほぼ同じ時代に同じ地域で撮影された風景写真は、これまで何度かここでもご紹介してきている。ところが、写真の出どころがまったく異なるにもかかわらず、同じ人物が撮影されている写真というと、家族や親族の記念写真以外はめったにない。そんなめずらしい偶然が重なった、貴重な地域のケーススタディをご紹介したい。
 以前から何度かご紹介しているが、目白通りを走ったダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車)のバスガールClick!をされ、結婚して下落合から長崎へと転居された上原とし様Click!(小川薫様Click!のお母様)がお持ちだった写真の中に、五郎久保稲荷Click!の祭礼を撮影した写真Click!が何枚か残っている。おそらく1939年(昭和14)ごろの撮影だと思われるのだが、その中の1枚にまるで歌舞伎役者のようないでたちをした“お祭り男”が写っていた。小川様のご記憶では、お母様から聞いた話として写っているのは「お祭り男の松っちゃん」と呼ばれた人物だという。松っちゃんという愛称を手がかりに、この方は五若の“お祭り男”=鈴木松雄様であることが判明した。調べてくださったのは、椎名町や長崎界隈、トキワ荘などを調査研究されている小出幹雄様Click!だ。
 「お祭り男の松っちゃん」は、祭礼の日になるとまるで役者のような厚塗りの化粧をし、江戸時代そのままのちょんまげコスチュームで街中を練り歩いていた。当の鈴木様のお宅には、目白通り沿いの富士美写真館(東京写真工芸社)で撮影されたものだろうか、五若のハッピを着て提灯を持った鈴木松雄様のハレ姿が残されていた。(冒頭写真) もっとも、当時の祭礼では参加者が白塗りをするのは当たり前だったようだけれど、ちょんまげ姿はさすがにめずらしかったのではないか。ご子息の鈴木実様とともに、写真館で撮影された化粧なしのプロフィールも残されている。素顔の鈴木松雄様は、なるほど、役者のようなイケメン(いい男)だったのがわかる。きっと、目白から椎名町界隈の女性たちにも、かなりもてたのにちがいない。小出幹雄様によれば、残念ながら鈴木松雄様もご子息の鈴木実様も、すでに亡くなられてお話をうかがうことができない。
 
 
 もうひとつ、小川薫様の写真で、場所がハッキリ判明したものがある。ダット乗合自動車(東環乗合自動車)の制服コートを着た男性(おそらくドライバー)ふたりと、同僚だった和服姿のバスガールが写っている写真だ。わたしは当初、背後に広いスペースがあるため、目白通りへ出て撮影されたものと考えたのだが、実はちがっていた。同じ練馬街道(長崎バス通り)の、西側にあった空き地に入りこんだところで3人はカメラに向かっている。この空き地の位置は、現在のトキワ荘の記念碑が建つ南長崎花咲公園のあたりだ。当時の住所は、椎名町5丁目4125番地(現・南長崎3丁目9番地)ということになる。そして、この空き地にはのちに都バス(1943年まで東環乗合自動車)の車庫と職員寮だった「大和寮」が建設されることになる。小川様の写真背後に見えている向かい側のお店は、右が「双葉洋服裁縫店」(戦後は双葉洋服店)、左が「保谷寝具店」(保谷ふとん店)だ。これらのお店は、戦後も引きつづき営業をつづけている。
 小出様よりお送りいただいた写真に、同じ空き地からほぼ同じ方角を向いて撮影されたショットがある。1955年(昭和30)ごろに写されたものだが、空き地の道路沿いには小川様の写真にはなかった板塀が築かれているのがわかる。また、その板塀越しに商店が3軒見えているが、右から左へ双葉洋服店、保谷ふとん店、そして島田金網店だ。時を15~20年ほどへだてて、同じ位置から撮られた同じ画角の写真もたいへん貴重だ。昭和初期の小川様の写真にもどると、3人が写る左手30mほどのところに、ダット乗合自動車(東環乗合自動車)の車庫兼営業所が建っているはずだ。


 もう1枚、小出様から、わたしにとってもたいへん懐かしい写真をお送りいただいた。1960年(昭和35)ごろに撮影された、いまの南長崎花咲公園の南側にあたる風景だ。わたしが懐かしいのは、学生時代にもっとも多く通った、椎名町教会の並びにある銭湯「久の湯」(旧・仲の湯)の煙突が目の前に見えているからだ。ということは、この写真が撮影されてから、さらに20年後、わたしはこの界隈を学校帰りやヒマなときにウロウロ散歩していることになるのだけれど、さすがに久の湯の煙突以外の風景に、見憶えのあるものはないようだ。
 1970年代末のそのころ、マンガ家たちが集ったトキワ荘はいまだ現役で建っていたはずなのだが、目にした憶えがない。目白通りと山手通りの交差点にあった、夜になると赤いネオンが鮮やかに灯るマンガ家たちのたまり場・喫茶店&バー「エデン」の記憶は鮮明なのに、トキワ荘は記憶からすっかり欠落している。わたしが大学に入った年、語学の授業でいっしょになった級友が、トキワ荘のすぐ近くにアパートを借りていると自慢げに話していた。そのときピンときていれば、さっそく遊びに出かけていろいろ話を聞き出し、トキワ荘も見学してきたはずなのにと悔やんでいる。わたしは入学当時、いまだ自宅にいて家から独立していなかった。
 つい数年前まで存じあげなかった方々との間で、このように写真を通じて昭和初期から現在までの物語の糸が、少しずつ繋がりはじめているのがとても面白い。1920年代から戦後にかけての上原とし様と小川薫様のご記憶、1950年代末からの小出幹雄様のご記憶、そして1970年代末に学生だったわたしの記憶の糸が、少しずつ結びついていくのを感じる。

 
 
 写真に見える商店のうち、「双葉洋服裁縫店」(双葉洋服店→テーラー双葉)さんはいまでも健在で、貴重なお話をたくさんうかがえた。目白から落合地域が空襲Click!を受けたとき、双葉洋服裁縫店の中沼伸一様は長崎で、B29と日本の迎撃戦闘機との死闘を目撃されていた。池袋の上空あたりで撃墜されたB29Click!は、高田町(学習院下)の国産電機工場へ墜ちてきたが、長崎には撃墜された迎撃戦闘機が墜落している。35年後、わたしが通い馴れる久の湯(当時は仲の湯)の罐場(かまば)へ、B29を迎撃した戦闘機は墜落するのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:五郎久保稲荷の祭礼の日、このハレ姿で鈴木松雄様は長崎の街へ繰り出した。
◆写真中上:上左は、小川薫様のアルバムに偶然とらえられた「お祭り男の松っちゃん」。上右は、素顔の鈴木松雄様とご子息の鈴木実様で、ともに亡くなっていて取材ができない。下左は、現在の南長崎花咲公園にあたる空地で撮られた小川様の母・上原とし様の同僚たち。ちょうど3人が立っている位置は、トキワ荘の記念碑があるあたりだ。下右は、小出幹雄様のアルバムより同じ空き地から同じ商店街の方向を向いて、1955年(昭和30)ごろに撮影されたもの。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)発行の「長崎町事情明細図」にみる撮影ポイント。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる撮影ポイント。東京都バス(1943年まで東環乗合自動車)の大和寮が見えており、この跡地に南長崎花咲公園が造られている。
◆写真下:上は、1960年(昭和35)ごろに撮影された空き地の南側で、現在の南長崎花咲公園の広い南側にあたる。中左は、写真に撮られた商店3軒の現状で中央右に「テーラー双葉」さんが健在だ。中右は、上原とし様の同僚たちが立っていた場所にはトキワ荘の記念碑が建てられている。下左は、花咲公園の南側に拡がる広場で、このあたりからも廃業してしまった久の湯の煙突は間近に見えただろう。下右は、練馬街道沿いの南長崎ニコニコ商店街で突き当りが目白通り。