現・下落合駅の南、落合中央公園にある野球場の西隣りあたりに、黄檗宗の禅寺・泰雲寺があったことは、以前にも新聞記事に絡めここでチラリとご紹介Click!している。戦前までの地番は戸塚3丁目537番地、神田川の整流化工事によっていまは上落合1丁目2番地にあたる位置に建っていた明星小学校に隣接する、西側一帯の広い区画が泰雲寺の境内だった。泰雲寺跡の南、村山知義Click!の三角アトリエClick!前には、戦前まで月見岡八幡社が建っており、戦後は少し北側へ移転しているけれど、その移転先が泰雲寺の西外れにあたる一画だ。
 1761~1777年(宝暦11~安永6)の間、泰雲寺は下落合の御留山Click!で鷹狩りをした将軍が休憩に立ち寄る、いわゆる「御膳所」としても有名だった。泰雲寺の開山は、1694年(元禄7)に伽藍(がらん)の一部である如意輪(にょいりん)観音堂が建設されたのがはじまりで、落合地域ではかなり新しい寺なのだが、1911年(明治44)になるとまるで自然消滅するように廃寺となっている。廃墟となったあとも、伽藍はしばらく建っていたようだけれど、そのあたりにどうやらキツネが棲みついていた話も、以前にバッケの昔話「狐火」Click!とともにご紹介した。
 さて、このお寺、美しい女性がその美貌ゆえに入門を許されず、顔を焼いて尼僧になったという逸話が付随しているので、急に興味がわき調べたくなったのだ。女性の名前は葛山総(かつらやまふさ)といい、千代田城の御殿医・松田重国のもとへ一度は嫁いだが、松田家と実家の跡取り息子をふたり産むと出家への夢忘れがたく、ついには離縁をしてまで尼僧になろうとした。総(ふさ)は、さっそく近隣の禅寺を訪ね歩いたらしいが、「容色艶にして魔魅あり未熟雲水の修行の障り」になるとして、あっさり入門を断られてしまう。要するに、「あんたが寺にくると、いまだ未熟な修行僧たちが色めきたって、収拾がつかなくなる怖れがあるから、よその寺をあたってね~」ということだ。


 そして、駒込にあった大休庵の白翁禅師を訪ねるのだけれど、やはり「美しすぎる」ことを理由に入門を断られてしまう。そこで、彼女は門前にあった花屋で老婆が火鏝(ひごて=アイロン)を衣類に当てているのを見るや、それをひったくって顔の半面を焼いてしまった。こうして、総(ふさ)は醜くなったことで大休庵への入門を許され、白翁から「了然」という僧名をもらって修行を積むことになる。1678年(延宝6)のことだ。やがて、白翁が泰雲寺をどこかへ建てるよう遺言して死去すると、16年ののち、了然尼は上落合へとやってくる。上落合村の名主・伊左衛門が土地と私財を寄進したことにより、上落合へ泰雲寺が建立されることになったのだ。初代(勧請開山)の住職は死去した白翁とし、了然尼は二代目住職として寺に住むことになった。
 了然尼は上落合村で、さまざまな社会事業も手がけたらしい。今日に伝わる仕事としては、近隣の子供たちを集めて寺子屋のような教育の場を設けたり、泰雲寺の北側を流れる妙正寺川には付近に橋がなかったため、土橋(どばし)を架ける工事なども行なったらしい。この土橋は、当初は了然尼にちなんで「比丘尼橋(びくにばし)」と呼ばれたようだが、江戸後期には怪談乳房榎Click!にも登場するように「落合土橋」と呼ばれるようになり、ちょうど神田上水(現・神田川)との間で三角州のようになった土地、幕末近くになるとホタルの名所として賑わったあたりの妙正寺川に架けられていた。下落合駅前に架かる、現在の西ノ橋Click!のことだと思われる。
 
 
 江戸期の絵図(地図)を参照すると、江戸中期までに落合地域の神田上水および妙正寺川に架かっていた橋は、西ノ橋(落合土橋=比丘尼橋)と田島橋Click!の2橋しかなかったようだ。それが江戸の後期、幕末近くになると妙正寺川には、現在の中井駅前にある寺斉橋Click!と目白学園下の水車橋Click!が描かれるようになってくる。もっとも神田上水はともかく、当時の妙正寺川は小川だったと思われるので、雨でも降らないかぎりは跳び越えて渡れていたのだろう。おそらく、了然尼が上落合へやってきたとき、神田上水に田島橋はすでに存在していたと思われる。
 1911年(明治44)に泰雲寺は廃寺となってしまうのだが、その建築のいくつかは別の寺へと移築されたようだ。現在でも確認できるのは、目黒不動Click!(瀧泉寺)から五百羅漢寺をはさんで東隣りにある黄檗宗・海福寺に、上落合に建っていた泰雲寺の山門が移築され、扁額とともに残されている。扁額は、「泰雲寺」と書かれていたものから「寺」の部分を切り取り、「泰雲」としたものが海福寺の本堂上に架けられている。さっそく拝観に出かけると、海福寺はこじんまりとしていて落ち着ける、とても瀟洒な寺院だった。泰雲寺のものだった山門には、べんがらが塗られて美しい。
 
 上落合の泰雲寺にあった了然尼の墓は、廃寺とともに白金の瑞聖寺に改葬されて落合地域には残っていない。了然が禅僧になりたかったのは結婚する前から、つまり17歳以前からの望みだったらしいのだが、年端もいかない彼女を出家へと駆り立てていたものはなんだったのだろうか?

◆写真上:明治末に下目黒の黄檗宗・海福寺に移築された、上落合の泰雲寺山門。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる泰雲寺の境内跡で、旧・神田上水の整流化工事の直後の様子。翌年には、戸塚3丁目537番地の突き出た敷地に明星小学校が建設される。下は、1944年(昭和19)に陸軍が最後に撮影した空中写真にみる同所。
◆写真中下:上左は、泰雲寺跡の東端あたり。上右は、境内跡に通う路地のひとつ。下左は、境内の西端あたりで道筋には戦後に月見岡八幡社が移転してきている。泰雲寺境内の地形は、北側と東側がそれぞれ妙正寺川と神田川へ向かってなだらかに傾斜している。下右は、幕末に描かれた「御府内場末往還其外沿革図書」にみる上落合村の泰雲寺。
◆写真下:目黒不動に隣接した海福寺にいまも残る、泰雲寺の山門(左)と扁額「泰雲」(右)。