だいぶ食べ歩きの画像もたまったので、久しぶりに「うなぎ」Click!のことなどを書いてみたい。いつだったか、下落合617番地に住んでいた「光波のデスバッチ」ヲジサンこと、歌舞伎の台本作家・松居松翁Click!が六代目・尾上菊五郎のために書き下ろした、『人情深川祭』Click!について記事にしたことがある。松居がイキなセリフに困って、山東京伝の『通言総籬(つうげんそうまがき)』からうなぎの「青」や「白」や「筋」を借用してきたエピソードだ。うなぎの蒲焼きを注文するのに、芝居では「おやじ、青の長やきを二人前、持ってきて呉れ」と菊之助に言わせている。おそらく、うなぎの種類を表す呼称だったのだろうが、いまとなってはどのようなうなぎを指すのかがわからない。
 ところが、この「アオ」といううなぎの呼称が、養殖うなぎがほとんどとなった現在でもつかわれていることがわかった。江戸前Click!に呼称されていた「白」とか「筋」は、残念ながら不明のままだ。現代の「アオ」という呼称は、江戸期につかわれていた天然うなぎClick!の種類ないしは産地を表すと思われる「青」ではなく、うなぎが静岡や愛知で大規模に養殖されるようになってから以降、つまり明治以降に改めて誕生して業者間で流通したらしい、どうやら符丁のようなのだ。もちろん、養殖うなぎの種類(というか容姿や体色)を表す言葉なのだが、他にも「クロ」や「ゴマ」、「サジ」などというのがあるらしい。ちなみに、もっともうまいとされるうなぎは、アオとクロとゴマなのだそうだ。
 うなぎのアオは、背中が黒くて腹が白く、やや太めの個体を指すらしい。ゴマは、黒っぽい斑点が体じゅうにあるうなぎで、サジは背中が灰色をしていて腹が黄色い個体をそう呼ぶようだ。クロも、アオに近いうなぎで、体色がより濃い(黒みが強い)ものを指しているように思われる。同じ符丁として、頭が大きく体の痩せているマズイうなぎをゲイタ、また通常のうなぎだが小ぶりなものをメソッコ(メソウナギ)と呼ぶらしい。おそらく、養殖うなぎを仕入れて生簀に入れ、東京じゅうの「う」に卸していた江戸川Click!(現・神田川)あたりの問屋街Click!でも、頻繁につかわれていた符丁なのだろう。
 
 うなぎが登場する江戸芝居は、松居松翁の作品ばかりではない。目白を舞台にした鶴屋南北の『東海道四谷怪談』Click!には、直助が“うなぎかき”の権兵衛に身をやつして砂村の隠亡堀に現れている。江戸期から人気の高い蒲焼きだから、うなぎ漁師は当時からたくさんいただろう。うなぎ獲りは、下半身を川の中へ浸けなければならない。だから、うなぎの名産地だった深川以西には、身体の冷えを治す疝気(せんき)稲荷がいまでも残っている。直助権兵衛のセリフを引いてみよう。
  ▼
 直 助 さて今年のようにべらぼうに漁のない事は覚えぬ。したが、ここらはどうか水のにごりがよさそうな。どれここらをやって見ようか。 と、川の中に入り腰だけになって川の中を掻いているうち、鰻かきの先にお岩の鼈甲櫛がひっかかる件(くだり)から、入相の鐘。
 伊右ヱ門 もう入相か。どれここらへ下して  釣竿を川に下してきせるを取出し、そばの直助が煙草をのんでいるのを見て 火を借りましょう。
 直 助 おつけなせえ と言って出しながら笠の中を覗いて 伊右ヱ門さん、お久しゅうございます。
 伊右ヱ門 や、そう言う汝(てめえ)は直助。
 直 助 あい、その直助も今では改名、鰻かきの権兵ヱ、もし伊右ヱ門様いわばお前は、わしが為には姉の敵というところだね。                    (春陽堂版『世話狂言傑作集』より)
  ▲
 この小ずるくて卑怯で、どこかずうずうしい複雑な性格の“鰻かき”の権兵衛こと直助、先代の中村勘三郎Click!がやると絶妙でピカイチだったのだが、いまの舞台では誰の持ち役なのだろう? 
 
 
 そのほかにも、薬研堀(東日本橋)の花川という「う」を舞台にした、矢田弥八の『露路の狐』という芝居がある。先代の守田勘弥の当たり役だったのだそうだが、わたしは子どものころも含めて観た憶えがない。この芝居、野幇間(のだいこ)の一八が、お腹をすかして知り合いの(土地柄から柳橋Click!の)姐さんのところでご馳走になろうとするのだが、そろいもそろってみんな留守。仕方がないので、薬研堀界隈で知り合いが通るのを待ち受けて、首尾よくうなぎの「花川」へ・・・という筋立てなのだが、このストーリーは古典落語の『鰻の幇間(たいこ)』そのままだ。結局、一八はご馳走になるどころか、とんだ「狐」に食い逃げされてしまうのだが、原作者が不明な江戸落語の筋を、そのまま舞台へと持ち込んだのが『露路の狐』というわけだ。
 もうひとつ、うなぎが登場する芝居に、岡本綺堂が市川左団次のために書いた『城山の月』というのがある。薩摩を舞台として、「西南の役」で政府軍に追いつめられた西郷隆盛と桐野利秋が、死ぬ前に蒲焼きを酒の肴に食いたいと、うなぎ屋に焼いてもらうシーンが描かれている。新国劇でも上演されたそうだが、当然、親父もわたしも面白くないので観てはいない。西郷隆盛が、江戸前の蒲焼きを「うまい」と感じたとすれば、したじClick!ベースの風味を理解できていたということになるのだが。
 
 都内各地の「う」を食べつづけているけれど、最近食べた中で下町Click!のわたしの舌に「うまい!」と感じ、ピタッとはまった店は灯台下暗し、高田馬場(たかだのばば)駅近くにある「愛川」だ。わたしは、あまり甘いのも困るので、焼きが下町風に強くて香ばしいが甘さは控えめなものがいい。この「愛川」、実は学生時代に友人と入ったはずなのだが、特に強い印象は受けなかったところをみると、わたしの舌にはごく自然な(下町デフォルトの)蒲焼きの味として、ハナから馴染んでしまったせいなのかもしれない。もう少し東の高田馬場(たかたのばば)Click!寄りにある「川勇」は、焼きも香りも申し分ないけれど、いまのわたしにはちょっとしょっぱいと感じる。
 目黒不動前の「にしむら」も相変わらずいいが、小日向の「橋もと」Click!や麻布の「野田岩」Click!に馴れている乃手の人たちには、みな焼きが濃すぎて香ばしすぎる(蒸しが足りない)と感じる店かもしれない。ちょっとがっかりしたのは、野球帰りの金山じいちゃんClick!ご用達だった神楽坂の老舗「志満金」。見世の構えは立派なのだが薄暗い店内や接客も含め、はとバスがお昼にやってくるようになってしまったらしい駒形の大川端「前川」と同様、その風味にわたしは感心しない。

◆写真上:あちこち食べ歩いていながら、近所のうまい店に改めて気づいた高田馬場「愛川」。かなり焼きが強いのだが、これが香ばしいだけで苦くないのがここならではの仕事だろう。
◆写真中上:左は、1950年(昭和25)ごろに撮影された砂町の隠亡堀南にある疝気(せんき)稲荷。右は、伊右衛門に火を貸してやる「隠亡堀戸板返しの場」の直助権兵衛(二代目・市川左団次)。
◆写真中下:上左は、化学調味料のピリピリ(漬物?)が舌に残り気になった四谷「宇な米」。上右は、渋谷駅前で昔から定番の「松川」。下左は、わたしにはややしょっぱいがご飯を多めに食べられる若い子向けの高田馬場「川勇」。下右は、安定した風味で安心の目黒不動門前「にしむら」。
◆写真下:左は、先ごろ店をたたんでしまった乃手の地味な「う」だった関口「神田川」。右は、金山平三が1960年代に行きつけの店なのだが、ちょっとがっかりした神楽坂の「志満金」。