山手線をはさんで広大な敷地を占有し、近衛騎兵連隊Click!をはじめ、陸軍の幼年学校Click!、同軍医学校、同射撃場Click!、同練馬場、同技術本部Click!、同科学研究所などが建ち並んでいた戸山ヶ原には、戦後ほどなく住宅不足を解消するために、国によって戸山ヶ原住宅が、東京都によって戸山アパートが建設されている。特に戸山アパートは、日本で初めての本格的な“団地”で、高度経済成長の時代に各地で作られる団地の先駆けモデルとなったアパート群だ。
 当初、戸山ヶ原Click!には国営の野球場が建設される予定だったが、射撃場を接収しているGHQから、これだけ住宅が不足しているのになんで野球場?・・・という異議が出て、少ない面積で多くの人々が住める集合住宅を建設するよう、改めて「指示」が出された。こうして、1棟に24世帯を収容できる戸山アパート(戸山ハイツ)※が、1953年(昭和28)までに46棟ほど完成している。アパートの部屋構成と賃料は同年現在、6畳+4畳半(1,210円)、10畳洋間+3畳(1,300円)、6畳+6畳(1,490円)、8畳+6畳+3畳(1,690円)だった。ただし、戦後すぐに建設された旧式のアパートのほうには、6畳+4畳で700円という格安物件もあったらしい。
※還暦ぱぱさんより、山手線の線路際のアパートが「戸山アパート」で、戸山ヶ原東端の箱根山寄りの住宅群が「戸山ハイツ」とのご教示をいただいた。タイトルのみ訂正させていただいている。
 もちろん、電気やガスは完備していたが、水道は地下水を汲み上げて背の高い水道タンクに一時貯え、その高低落差を圧力にして各戸に供給する、大正期の“文化村”方式をそのまま踏襲していた。荒玉水道Click!はとうに敷設を終えていたけれど、わざわざ大規模な工事をして水道を引くまでもなく、清廉な地下水があちこちで湧いていた戸山ヶ原では必要性を感じなかったのだろう。ところが、住民はこの飲み水で辛酸をなめることになる。
 当時の東京は、送電設備の信頼性が低く、故障や事故によりいまだ停電が多かった。停電すると、水道タンクの汲み上げポンプが止まり、同時に各戸への給水がストップしてしまう。また、水道タンク自体の故障も多かったようだ。だから、当時の戸山アパートの住民は、水の出るときに汲み置きをして非常時に備える・・・というのが日課だったらしい。さらに、それに輪をかけてたいへんだったのが、当時の電力会社で結成されていた労働組合による電産ストライキだ。ストライキが何日もつづくと、戸山アパートは干上がってしまう。1階や2階の住民はまだいいが、エレベーターのない3階や4階の住民たちは、生活水を毎日運び上げなければならなかった。
 
 戦前から落合地域の周辺に住んでいた佐多稲子(窪川稲子Click!)は、1953年(昭和28)に発行された『中央公論』5月号の「東京通信」に、「戸山アパート街」というルポルタージュを執筆している。
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 それだけ言へば松や檪の林もあつて、早稲田の学生の日向ぼつこの場にも、近くの子どもたちの遊び場所にもなり、日曜などは弁当持参の家族づれの散歩道にもなつた戸山ヶ原は、高田馬場を通過する電車の窓からも視野がひらけて眺められたものだ。終戦直前までこのすぐ下に住んでゐた私にも、散歩に出てきて、騎兵の訓練を見たりしたなじみの場所である。激しい空襲のあつた夜は、隣組の子どもをこの原へ避難させたりもした。ここにアパートが建ちはじめた頃、そのことを知つてゐながら私は、ある夜高田馬場駅を出た電車の中で、はつとして、自分がどこへ来たのかとうろうろ見まはしたことがある。かつて、夜は、遠くに町の灯をのぞむ闇の空間だつた場所に、窓々に灯を点じた巨大な建物が線路すれすれにそそり立つてつづいてゐた。
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 近隣の人たちとって、戸山アパートは住宅ではなく、突然出現した高層ビル群のような眺めに見えていたようだ。アパートの自治会は早々に、近隣情報を共有するための「戸山アパートニュース」という定期刊行物を発行しているが、当時の住民たちのまとまりやコミュニケーション、協調性はあまりよくなかったらしい。同一の棟でも、4階まで上る同じ階段の利用者は、出会えば挨拶はするけれど、ほとんど近隣同士という交流は生まれなかったようだ。
 
 佐多稲子のルポでは、「あまり御近所に立ち入つてはいけない、といふ、おのづからのアパート生活者の信条みたいなものなのですよ」と、居住者である主婦たちの言葉を伝えている。今日ではどこでも見られる、横のつながりのないマンション生活のような光景が、すでに戦後すぐの戸山アパートで発生していた。佐多は住民たちの声を、細かくていねいに拾い集めている。
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 こざつぱりとした白髪の老人は、「縁側のたのしみがない。盆栽をつくつても、上からものを落して壊される」と嘆いた。青いものと土の感じの不足は若い人たちにも同じやうにあつた。老人はつづけて「御婦人にはしかし、らくでござんせうな。家の中の仕事がござんせんもの。」/格子戸を磨く手数は要らないにちがひない。/若い夫は「妻がヒステリイになるやうな気がする。庭がなくて、狭い感じで、閉ぢこめられてゐるような強迫観念で汗をかく」と語つた。/年配の主婦は、「たしかに台所に立つ時間は少くてすみますね。三十分で片づきますもの。だから、運動不足でこの頃太つて困りますわ」といふ。主食の配給は四階まで運んでくれる。また御用ききも上がつてくる。
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 山手線を挟んで東側の戸山ヶ原南部、同じく東京都によって建てられた戸山ハイツ東部には、とんでもない遺物が眠っていた。戸山ヶ原は、もともと尾張徳川家の「戸山荘」と呼ばれた、広大な回遊式庭園を備えた下屋敷跡で、明治に入り陸軍が接収して軍用地にしたものだ。だから、地域のあちこちに徳川屋敷にからむ遺物や物語が眠っている。現在でも、タヌキが出没する戸山公園のことは、以前にも記事Click!にしている。その戸山ハイツの一画に、戸山山荘に建てられていた屋敷の鬼瓦が保存されていたのだ。住民の方によれば、戦前に陸軍から保管を依頼されたものだそうで、戦災にも破壊されずに大きくて見事な鬼瓦がそのまま残されていた。
 鬼瓦が“発見”されたのは、いまから44年前の1966年(昭和41)のことだけれど、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』によれば、所有者は区での保管や寄贈をかたくなに拒んだという。戦争を挟み、貴重な文化遺産を必死で守り通してきた住民の方にしてみれば、いまさら“発見”したと騒がれて寄贈するのが当り前のような顔をされたら、ちょっとヘソを曲げてみたくもなったのかもしれない。その後、この貴重な文化財がどうなったかはさだかでない。

◆写真上:山手線の東側に建てられた、戸山ハイツに残る現在の給水タンク。
◆写真中上:左は、佐多稲子が取材した当時の水道タンク。右は、1953年(昭和28)現在の夜景。
◆写真中下:戸山ハイツに建てられたアパート群(左)と、住んでいる子供たちの遊び(右)。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)に撮影された戸山ハイツ西部の空中写真。下左は、1966年(昭和41)に“発見”された戸山山荘の鬼瓦。下右は、鬼瓦があるお宅の北側にある戸山公園。
★はにわじいさんより、『中央公論』に掲載された戸山アパートの水道タンクが、同アパートのものではなく、実は国家公務員住宅の「新宿住宅」に建っていた水道タンクであるとのご教示をいただきました。(コメント欄参照) 取材をした佐多稲子やカメラマン、あるいは編集者が「戸山アパート」と「新宿住宅」とを混同していた可能性が高そうです。下記の空中写真は、1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる新宿住宅の水道タンクです。