1910年(明治43)11月のはじめ、下落合の住民から陸軍省へ1通の抗議の手紙がとどいた。巻紙に達筆な筆文字で書かれた手紙は、「軍隊演習中地方民ニ損害ヲ与ヘタル件」として問題化し、陸軍省から北の丸の近衛師団司令部および麻布(六本木)の第一師団司令部へ照会状がまわされ、陸軍次官へ稟議が上がるほど(副官委任)の大ごとになっている。抗議書を書いたのは、下落合391番地に土地を所有していた笹間博という人で、受理したのは陸軍省の軍事課だ。
 明治末における下落合391番地とは、当時は若山牧水の記録にも残る「落合遊園地」Click!と呼ばれた、林泉園Click!の西側に位置する湧水源のすぐ斜面上、のちに東邦電力の開発により文化住宅が建ち並ぶ近衛新町Click!が形成され、同園のテニスコートが造られたあたりだ。昭和に入ってからの地番変更により、一帯は360番地台の住所で統一されているようなのだが、明治期にはこの谷戸Click!の源流域には390番台の区画が存在していた。また、明治の末期には林泉園の源流域が、すでに近衛家の所有地ではなくなっていたことも確認できる。
 事件は、同年10月22日の昼すぎ、午後1時から2時までの間に起きた。笹間家では下落合391番地の敷地を材木置き場として使用していたのだが、そこへ騎兵たちが何人かやってきた。おそらく、遠出の途中で大休止をとり、兵たちや馬への給水が目的だったのだろう。材木置き場の柵へ馬たちをつなぎ、兵たちは水を飲みに、あるいは弁当を食べに落合遊園地(林泉園)の泉へ下りていったのだろう。その間、馬たちはイライラしてきたのか柵の板をガリガリと噛みはじめ、ついには暴れだして柵を長さ10間(約18m強)にわたって引き倒してしまった。
 もどってきた騎兵たちは、地主へ謝りにも行かなければ柵を元にもどすこともせず、馬が壊した柵板を材木置き場へ放りこんだあと、そのままトンヅラしてしまった。悪いことはできないもので、その様子を近所の人たちがしっかり目撃していたのだ。陸軍省では、「地方人民」からのクレームが相次いでいたため非常に敏感になっていたのだろう、同年11月8日に陸軍副官名で、近衛師団および第一師団の参謀長あてに、かなり強い調子の照会案(状)を送付している。

 
  ▼
 副官ヨリ近衛、第一両師団参謀長ヘ照会案
 軍隊ノ行軍演習ニ際シ地方人民ニ迷惑ヲ蒙ラシメサル様 注意スヘキ件ニ関シテハ従来屡々(しばしば)御訓示相成居候処 去ル十月二十二日某隊ハ府下豊多摩郡落合村付近ニ於テ演習中 午後一時ヨリ二時ノ間ニ於テ左記ノ者所有ニ係ル材木置場ノ柵ニ馬ヲ繋キ 為ニ長サ約十間ヲ引キ倒シ 之ヲ無断ニテ所有地内ニ投込ミ立去リタル旨 本人ヨリ申出有之候処 右果シテ事実トセハ其ノ処為甚タ不都合ニ候条 団下各隊中当日該所付近ニ於テ演習セルモノヲ調査ノ上 厳重戒飭(かいちょく)ノ上 報告相成度此段依命及照会候也
  左記
 府下豊多摩郡落合村字下落合三百九拾一番地  笹間 博
 陸軍省送達/陸普第四四八八号
  ▲
 これに対し、第一師団は11月28日付けで参謀課長・浄法寺五郎名で回答書を提出し、「該地付近ニテ演習ヲ施行シ損害ヲ与ヘタルモノ無之候間此段及回答候也」と報告した。また、近衛師団はかなり遅れて12月19日付けで参謀長・藤井幸槌名で、「該地付近ニ於テ演習セシ部隊無之候条及回答候也」と報告している。要するに、「当日、そんなところで演習した部隊は記録にないから知らないよ~」と言っているのだが、陸軍省の軍事課ではおそらく信用しなかっただろう。特に、近衛師団が戸山ヶ原に本部を置く騎兵連隊Click!がいっちばん怪しい・・・とニラんでいたにちがいない。
 
 
 国立公文書館の防衛省防衛研究所に旧・陸軍省資料として保存されている、同事件の資料は以上ですべてなのだが、笹間博あてに出されるべき回答書が付随していないところをみると、軍事課では両師団(ことに近衛師団)の回答に納得できなかったのだろう。
 なぜなら、戸山ヶ原の近衛騎兵連隊が大久保や落合方面で訓練をするのは常態化しており、正式な演習でなくても小隊ごとに馬を駆って遠乗りするのは、日常的に行なわれていたからだ。また、住民たちが陸軍の軍服を見まちがえるはずはない点を考慮すれば、近衛師団からの回答を鵜呑みにできないと考えただろう。笹間博へ「去ル十月二十二日ニ該地ニテ演習セシ事実無之候也」というような、木で鼻をくくったような官僚的な回答書が存在しないところをみると、軍事課から下落合391番地へ現地調査に赴いているのかもしれない。
 陸軍に対するこのような苦情は、別に落合地域に限らず、戸塚や大久保地域でも頻繁に見られる現象だ。明治末から大正期にかけ、陸軍省はこのような「地方人民ノ損害及迷惑」クレームを頻繁に受けるようになり、対応にことさら敏感になっているのは「従来屡々(しばしば)御訓示相成居候処」という、上記の照会状の文面からもうかがえる。周辺住民からのひっきりなしの騒音苦情に、大久保の射撃場Click!をすべてコンクリート建築で覆う計画が立案されたのも、この時期のことだ。それは、平和がつづく中で陸軍の規律のゆるみもあるのだろうが、戸山ヶ原の陸軍用地の周辺に住宅街が次々と押し寄せてきたのも大きな要因だろう。
 昭和に入ってからの「軍国主義」的な、陸軍がことさら“軍人風”を吹かせるような横柄さ傲慢さは、いまだ明治末から大正期にかけてはそれほど強くなってはいないようだ。笹間博への正式な回答書が付属していないのは、陸軍省軍事課が内々で処理した、つまり損害賠償ではなく「見舞金」というような曖昧な名目で、事件を収めてしまったのではないかという想定も成立しそうだ。もし、正式に回答していたとすれば、必ず笹間博への回答書が一連の公文書手続きの最後に存在していなければならない。このあと、陸軍省は府内の両師団に向けて、「地方人民ニ損害及迷惑ヲ与ヘサル様厳重注意スヘシ」というような通達を、改めて強い表現で出しているものと思われる。
 
 この事件からおよそ30年後、陸海軍は「地方人民」どころか、国民へ壊滅的かつ「亡国」寸前的な「損害及迷惑」をかける戦争をはじめてしまうのだが・・・。
 余談だけれど、近くにお住まいの宇田川長一様Click!は近衛師団に入営され、1945年(昭和20)8月15日を遠いミンダナオ島で迎えられている。「近衛師団の“本体”が、東京にいないで南の島にいるなんてえことじゃ、そもそも戦争に勝てっこないやねえ」・・・、まさにおっしゃるとおりなのだ。

◆写真上:笹間家の材木置き場だった林泉園の西側、下落合391番地の現状。
◆写真中上:笹間博による、陸軍省への抗議書と封筒。右下は、下落合391番地の西側境界。
◆写真中下:上は、陸軍省軍事課から近衛・第一両師団あてに出された「軍隊演習中地方民ニ損害ヲ与ヘタル件」照会状。下は、第一師団(左)および近衛師団(右)の回答書。
◆写真下:左は、北の丸に残る近衛師団の司令部(現・東京国立近代美術館工芸館)。右は、2階の西翼にある師団長室へと向かう階段。1945年(昭和20)8月15日の未明、敗戦を認めない陸軍将校たちによって、森赳師団長(当時・近衛第一師団長)と義弟の白石通教中佐が惨殺された現場だ。