昔は、なにかの記念に画家へ肖像画を依頼することが多かった。たとえば、大学の教え子やOBたちが恩師の退職のとき、あるいは還暦を迎えたときなどに肖像画を贈ることは決してめずらしくなかった。その際、かなり名のある画家に描いてもらうとなると、当然、画料も高額になる。帝大の物理学者・田中館愛橘Click!の教え子たちが、中村彝Click!に肖像画を依頼し『田中館博士の肖像』Click!(1916年)を描いてもらったのもそのようなケースだ。
 戦中戦後を通じて、安井曾太郎Click!にもっとも多く肖像画を描いてもらったのは、同じ下落合に住んでいた安倍能成Click!だろう。1944年(昭和19)に2点、戦後の1953年(昭和28)から1955年(昭和30)にかけての3年間に2点(1点は習作だろう)が制作されている。安倍能成は戦時中、第二文化村の安倍邸Click!(下落合1665番地)から近衛町の安井アトリエClick!(下落合404番地)へと通いつづけ、戦後は安井の湯河原アトリエにわざわざ出向いて、旅館に宿泊しながらモデルをつとめた。戦時中に制作された肖像画2点は、ポーズも構図もまったく異なっている。
 安井曾太郎と安倍の出会いは、1915年(大正4)とかなり古い。安井がパリから帰国した直後というから、ふたりともまだ下落合には住んでいない。『Profile by YASUI SOTARO』図録(ブリジストン美術館/2009年)からの孫引きになるけれど、1956年(昭和31)4月に出版された『安井曾太郎表紙画集2』(文藝春秋新社)掲載の、安倍能成「安井曾太郎君の追憶」から引用してみよう。
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 安井君に始(ママ)めて会つたのは君がパリから帰国した大正三年の翌大正四年(1915)だから今から四十一年前のことである。私はあまり積極的に交りを求める方でもなく、安井君も同じやうであつたが、互いにうそも詐りもない間柄だつたから、安井君の交友の中で、私などはまあ親しい方であつただらう。(中略) 安井君に先だつて帰国していた津田青楓が、パリにはえらい若い日本人の洋画家が居るといつたとは武者小路君から聞いて居たけれども、それを直ちに初対面の安井君に結びつけたかどうか確かではない。
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 安井が戦争末期に描いた『安倍能成像』と『安倍能成氏像』は、“非常時”でもあり展覧会へは出されなかったが、戦後すぐに開かれた第1回日展に出品されている。前後の様子を、同様に1946年(昭和21)の『美術』4月号に掲載された、安井曾太郎「安倍先生像について」から引用しよう。
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 安倍さんはよく通つてくれた。安倍さんの下落合の家から僕の処迄徒歩三十分かかるが、安倍さんは快く通ひ、快くポーズしてくれた。それをよい事にして一昨年二月一日からその年の夏迄来てもらつた。その長い間髪床へも行かず安倍さんは我慢してくれた。安倍さんはいい顔だ。全身もよい。(中略) 夏になつてから胸像の方を描いた。夏服の安倍さんもまたよかつた。茶と白のアルモニーが美しかつた。その絵は幾分楽に描けた。下落合の家が焼かれて、安倍さんは駒場の友人の処に避難中、そこへその胸像が届けられたのだが、五月二十五日再度の罹災でその絵も画面に多少の焼跡が出来た事を安倍さんからのたよりで知つた。
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 戦時中の制作は、1944年(昭和19)2月1日からスタートしている。当時の安倍能成は、一高の校長をしていて多忙であり、最初は2週間ぐらいモデル役をつとめるだけで完成するはずだった。ところが、制作期間が延びにのびて、初夏のころになってようやく1作めが完成している。そして、安井は間をおかず次の作品に取りかかり、安倍は冬服からいきなり夏服に着替えてポーズをとりつづけた。この2作品を仕上げるために、安倍は安井アトリエを都合100回ほど訪問している。ふたりとも旧知の間柄であり、同じ下落合に住んでいたからこそ可能だった仕事だろう。同様の孫引きで、1956年(昭和31)発行の『みづゑ』2月号に掲載された、安倍能成「思い出」から引用しよう。
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 絵は昭和19年の晩冬2月頃から始まったかと思う。当時はまだ空襲はなく、私は一高の校長をして居て内外多事に労して居たが、安井君のアトリエは下落合一丁目に、私の住居は同じく四丁目にあったので、歩いて通ったものである。モデルになって間もない頃、鶯がアトリエの外で鳴いたのを忘れない。安井君は始めに「まあ二週間くらい」といったが、「もう少し」が重なりに重なって、六十回になってやっと解除になったけれども、それは既に初夏の頃であって、その次のS君が私にくれるという半身像は、薄茶色の夏服姿であった。これもまあ一週間くらいというのが四十回になって、私は前後百回モデルになったわけで、恐らく生きた人間のモデルとしては、安井君のアトリエでも私はレコードホールダーではないかと思って居る。
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 安倍能成は、岸田劉生Click!の“首狩り”Click!と同様、安井曾太郎の“モデルカモ”にされてしまったようなのだが、ジッと100回も通ってガマンしたのには、それなりの楽しみもあったようだ。安井アトリエでモデルをすると、休憩時間にお茶やお菓子、ときには食事も出てきたようで、安倍は洋菓子など甘いものに目がなかったらしい。戦争も末期に近い1944年(昭和19)になると、統制がことさらきびしくなり物資もかなり欠乏しつつあったと思われ、安倍は安井アトリエでおやつに出される甘味がよほどうれしかったのだろう。同様に、安倍能成「思い出」から引用してみよう。
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 週にニ三回くらい通ったかと思う。大抵一回2時間、時によると3時間になることもあった。間でお茶が出て、たまには当時としては有りがたい午食の馳走になることもあった。甘いものの乏しくなった時で、洋菓子の頂辺におく仁丹見たような銀の玉が、満州から送られたというので、それをお茶菓子にたべて随喜したこともある。
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 少しぐらい楽しいことがないと、なかなかアトリエへ定期的に通ってきてはくれないと考えたものか、安井曾太郎は安倍を“甘いもの”で釣っていたようなのだ。安倍のほうも、ついつい「きょうはなにが出るのかな?」とウキウキしながら、第二文化村Click!から近衛町Click!まで100回も通ってしまったような気もする。これはあながち誇張ではなく、砂糖の統制と入手が困難な状況から、当時の日本人はそれほど甘いものに飢えていたのだ。砂糖を含む甘味いっさいを、1年以上もロクに食べられない状況を想像すれば、安倍の「随喜」もおおよそ見当がつくだろう。
 戦後の1953年(昭和28)からスタートし、1955年(昭和30)になってようやく完成する『安倍能成君像』のほうは、安倍はわずか1週間ほどしかモデルをつとめていない。また、制作されたのは下落合の安井アトリエではなく、湯河原にあった旧・竹内栖鳳Click!のアトリエを借りての仕事だった。安倍は、近くの旅館「楽山荘」へ宿泊してアトリエに通っている。くしくしも『安倍能成君像』は、安井曾太郎が描いた最後の肖像作品となった。同様に、安倍能成「思い出」から証言を聞いてみよう。
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 この時は一昨々年の7月、天野屋の構内に安井君の借りて居た竹内栖鳳の旧アトリエへ、近くの旅宿楽山荘から7、8日ぐらい通ったかと思う。楽山荘の石段を200段くらい下りて、安井君の部屋から又木の細かい段を、右曲左折してそれくらい上るとアトリエである。これは2時間坐って、午食を頂き、午後又2時間くらい坐ったかと思うが、私のモデル歴では一番短い方である。しかしその仕上には大分かかり、一昨年の秋だったかに国際美術展覧会に出陣した後、今年の初夏になってやっと私の手に渡った。その時安井君がはがきをよこして、「少しは君が出て居る様にも思っているが、気に入るかどうか心配。とにかく見てくれたまえ」といって来た。安井君は最後の仕上を極度に重視すると共に、容易にそれを許さない。それが少し過ぎて画を固くする傾きもなくはないくらいだが、この画にもその苦心は十分あったように思う。
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 安倍は、「一昨年の秋だったかに国際美術展覧会」と書いているが、正確には1955年(昭和30)の5月からスタートした日本国際美術展に、『安倍能成君像』は出品されている。
 
 
 同じ下落合の町内にもかかわらず、第二文化村の安倍邸から近衛町の安井アトリエまで、最短の近道で歩いたとしても、早足のわたしでさえたっぷり15分はかかりそうだ。ましてや、当時は十三間通り(新目白通り)が存在していないため、住宅街の中のわかりにくい道筋を右折左折しながら歩いていくことになる。60歳をすぎた安倍能成が、坂道の多い目白崖線をそれでも足繁く100回も通ってしまったのは、恩師(夏目漱石Click!)ゆずりで甘いものに目がなかったか、あるいは戦時統制で甘味に飢えていたからではなかろうか?
 頭をつかう仕事をする人ほど、脳が甘いものを欲っするらしい。哲学者の頭の中では、この戦争をどうしたら終わらせるClick!ことができるか、脳がフル回転していたのではないだろうか。

◆写真上:1944年(昭和19)の夏、下落合のアトリエで制作中の安井曾太郎とモデルの安倍能成。
◆写真中上:左は、同年の2月から初夏までかかった安井曾太郎『安倍能成像』。右は、戦後に撮影された学習院の応接室に架けられている同作と安倍能成院長。
◆写真中下:上左は、同年夏からスタートした安井曾太郎『安倍能成氏像』。上右は、そのデッサンの1枚。下は、1941年(昭和16)の地図にみる安倍能成の安井アトリエへの想定通勤ルート。
◆写真下:上左は、1955年(昭和30)に完成した安井曾太郎『安倍能成君像』。上右は、1953年(昭和28)7月に湯河原の旧・竹内栖鳳アトリエで制作中の安井曾太郎とモデルの安倍能成。下左は、上の写真で制作中の習作とみられる作品。下右は、同作デッサンの1枚。