秋の美術展というと、色づきはじめた樹木の葉とともに展示場はひっそりとした風情が漂い・・・と、人影もまばらで、靴音が高く響きかねない雰囲気を想像していた。大正期は美術鑑賞という習慣が、まだ庶民の間へそれほど浸透しておらず、海外から有名な画家の作品がやってくる特別展ならともかく、毎年開かれる美術展Click!は、現在のように行列をするほどの混雑はなかった・・・と、勝手に思いこんでいた。ところが、これがとんだ大間違いだったのだ。
 1日に、なんと数万人の入場者数さえ稀ではなかったようだ。当時の新聞で報道された記事の見出しから、大正初期の文展(文部省美術展覧会)から、中期以降の帝展(帝国美術院展覧会)までの大人気、大混雑ぶりを抜き出してみよう。
 1912年(大正元)11月18日…文展、36日間で16万9,031人(万朝報)
 1914年(大正3)10月18日…文展、入場してもまるで箱詰の様な有様11,146人/日(読売新聞)
 1916年(大正5)10月18日…文展、未曾有の17,000余人の大賑い(東京朝日新聞)
 1917年(大正6)10月18日…人で埋まる文展、入場者10,134人、入場料30銭(東京日日新聞)
 1918年(大正7)10月16日…文展初日午前中に5,000名、記録を更新(読売新聞)
 1919年(大正8)10月18日…帝展3日目祭日で賑わう、14,435人入場(読売新聞)
 1920年(大正9)10月18日…帝展初日7,591人入場、売約34点15,930円(万朝報)
 1921年(大正10)10月16日…帝展初日の馬鹿景気(東京日日新聞)
 1922年(大正11)10月23日…昨日の帝展に12,000人の大入り(読売新聞)
 1924年(大正13)10月18日…帝展の入場者数9,000人、モデルの芳子来る(読売新聞)
 1925年(大正14)10月18日…帝展初日5,500人、13点売約(読売新聞)
 
 文展・帝展の入場者推移を見ていると、関東大震災Click!のあった1923年(大正12)の直後あたりから若干減っているけれど、これは帝展内部のゴタゴタしたもめごとに起因しているのかもしれない。ちなみに、1924年(大正13)の見出しにみえる「モデルの芳子来る」とあるのは、日本画家・伊東深水の専属モデルClick!だった“芳子”さんのことだ。
 当時、美術展の雰囲気がどのようなものだったのか、1918年(大正7)10月16日に開催中だった文展の様子を見てみよう。2005年(平成17)に出版された、青木宏一郎の『大正ロマン東京人の楽しみ』(中央公論新社)から引用してみる。
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 上野竹の台で開催中の文展は、画家の小磯源太郎が出品した洋画を切り裂く、というセンセーショナルな噂も逆に功を奏したのか、定刻前からすでに数百人もの観覧者が列をなす人気。売約済みの作品数は五〇点以上、六曲屏風一双(題名「牛」)の四〇〇〇円を最高額に合計二万一〇〇〇円余に達した。これは、文展始まって以来の売り上げ。記録を破ったのは、入場者数ではなく成金景気による作品の販売金額であったというわけだ。
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 文展・帝展は、会場での展示即売会も兼ねていたが、1918年(大正7)は空前の売り上げを記録している。また、大正期に撮影された写真や描かれたマンガをみると、すさまじい混雑の様子がうかがえる。展覧会の会場前にはクルマや俥(じんりき)が列をなし、同時に会場内の様子も掲載されているが、こちらは開館前の無人の展示場を写したものだ。
 会場内のマンガを見ると、まるでラッシュアワーのホームのようなありさまだ。会場を子供が駈けまわり、泣きわめく子や赤ちゃんにオッパイをあげている母親など、今日の美術展とはずいぶん様子が違っている。つまり、「美術を鑑賞する」と身がまえて出かけたというよりは、浅草の活動(映画)を観に行ったり、向島の墨田堤あたりへ桜をめでに繰り出したり、根津団子坂へ菊人形を見に出かけたりするのとたいして変わらない、物見遊山のひとつだったのがわかる。当時は、娯楽といえば出歩くのがあたりまえで、休日に家にいることのほうがむしろめずらしかっただろう。
 
 大正時代、花見や潮干狩り、海水浴などには、現在に勝るとも劣らないほど数多くの人々が繰り出している。人口が200万人の東京市で、行楽地へ200万近くの人たちが出かけるありさまは、まるで東京市街の家々が全戸留守になってしまうほどのにぎわいだった。しかし、行楽地のにぎわいは長くはつづかない。昭和に入ると、大恐慌や戦争の暗い時代を迎え、国民の楽しみは少しずつ奪われて、締めつけが徐々にきびしくなっていく。

◆写真上:会場前の大混雑。中村彝Click!も、下落合から帝展へ俥(じんりき)で出かけている。
◆写真中上:左は、文展会場内の様子。右は、代表的な行楽先のひとつだった帝国劇場あたりから見た千代田城。帝劇は、関東大震災で内部を焼失したが1924年(大正13)に再開している。
◆写真中下:1915年(大正4)の『東京パック』11月号に掲載された、文展の大混雑ぶり。
◆写真下:昭和初期に新聞各紙へ掲載された行楽広告で、西武電車(左)と京成電車(右)。高田馬場駅が仮駅ではなく、1928年(昭和3)4月14日に「新駅」Click!が完成したことをアピールしている。