kurakichiさんClick!が、諏訪通りの不可解なトンネル工事Click!のテーマを取り上げてくださったので、わたしも戸山ヶ原について初期のトンネル工事の様子も含め、もう少し詳しく書いてみたい。
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 敗戦直後に、戸山にあった陸軍軍医学校の建築群、コンクリート製でとりあえず外部が焼け残った軍陣衛生学教室(化学兵器研究室)、標本図書室、防疫研究室などについては、すでに記事Click!でご紹介した。その後、これらのコンクリート建築群は、厚生省が研究施設や病院として利用しつづけるのだけれど、軍医学校の防疫研究室ビル(関東軍防疫給水部の東京拠点)や軍陣衛生学教室(化学兵器研究室)ビル、そして標本図書室ビルなどが1980年代の終わりまで、戦後45年の間に外観を多少は変えながらも、そのまま厚生省の研究施設として使われつづけ、低空飛行によるカラー画像の鮮明な空中写真が残されていることが判明した。
 これらビル内部の様子は、戦後すぐのころに早稲田高等学院へ通った学生たちばかりでなく、つい20年ほど前までこれら研究施設に出入りしていた研究職員に取材すれば、内部の構造や仕様がかなり細かく判明するのだろう。特に軍医学校本部の北西に建っていた、出入りのチェックが特別きびしかった防疫研究室ビルは、地上2階建てのコンクリート建築なのだが、地下の施設や構造などがどうなっていたのかを明確に知ることができるはずだ。「わたしが勤めていた職場が、関東軍防疫給水部の拠点だったのか!?」と、いまさらながら思い当たる職員の方もおられるだろう。
 1945年(昭和20)の空襲でほとんどの建物が壊滅し、焼け残った頑丈なコンクリート建築は戦後しばらく使われたあと、戦前の建物なのでほどなくみんな解体された・・・というような印象が生じているのだが、関東軍防疫給水部(731部隊)の拠点ビル(防疫研究室)を含め、1990年(平成2)近くまで実は厚生省の研究施設としてずっと使用されていたのだ。それは、防疫や感染症の研究施設として使用するのに、とても都合のよい仕様あるいは構造をしていたからではないか?
 1936年(昭和11)に出版された『陸軍軍医学校五十年史』(陸軍軍医学校・編)によれば、もともと麹町区富士見町にあった学校施設のすべてが戸山へ移転を終えたのは、1929年(昭和4)3月30日だ。膨大なセメントや砂利Click!を要したであろうビル群は、西武鉄道の開業直後Click!である1927年(昭和2)6月4日に工事がスタート。約1年10ヶ月をかけて、戸山ヶ原の東端に次々と学校や研究施設、病棟などを建設していった。陸軍第一衛戍病院Click!の竣工が1929年(昭和4)10月なので、おそらく着工は軍医学校とほぼ同時期なのだろう。ちなみに、「戸山の軍医学校」として紹介されている写真の中には、麹町区富士見町時代の古い写真が混じっている資料もあるようだ。では、上掲の『陸軍軍医学校五十年史』から、新築移転工事の概要を引用してみよう。
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 陸軍軍医学校ハ明治二十一年麹町区富士見町ニ開設セラレ、爾来多年ノ星霜ヲ経テ幾多有為ノ軍医此校舎ニ於テ養成セラレ、且貴重ナル軍陣医学ノ業績此処ニ研鑽セラレテ、国軍ノ為貢献セシコト言辞ニ絶スルモノアリ。然リト雖、皇軍ノ拡充及軍陣医学ノ発展ニ依リ、現校舎ハ狭隘ヲ告グルニ至リ、夙(つと)ニ移転増築ノ議起リシガ遂ニ牛込区戸山町ノ陸軍用地ニ移転工事ヲ営ムコトニ決シ、昭和二年六月二十四日同地ニ起工、約二箇年ノ年月ヲ経テ昭和四年三月三十日竣工シ、此日移転ヲ完了セリ。
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 また、同『五十年史』には起工前の戸山ヶ原の様子、すなわち尾張徳川家Click!の下屋敷「戸山荘」Click!からつづく、周辺に見られた大正期の風情が記録されていて貴重だ。「戸山荘」は、千代田城Click!の西ノ丸や北ノ丸の庭園よりも規模が大きく、現在でも史上最大のレコードを破られていない、広大な池を備えた回遊式日本庭園だった。陸軍第一衛戍病院の敷地、つまり現在の国立国際医療センターのある丘上は、太田道灌Click!が物見櫓でも設置していたものか、「道灌物見ノ松」という旧跡があったのが採取されている。また、同病院が建設される前の敷地には、天祖神の社(やしろ)や絵馬堂が建っていたことが知られている。再び、同書から引用しよう。
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 其昔尾州侯戸山荘ト称シ、面積十有三万余坪ニシテ規模ノ壮大ナルニ於テ我ガ国造園史上空前絶後ノ大庭園ナリトス。現敷地ハ其一部ニシテ、古図ニヨレバ中央ニ大湖泉ヲ設ケ鶴島、亀島、弁天島等アリテ之ニ琥珀橋ヲ架シ舟ヲ浮ベタリ、是現在ノ中央ノ渓溝ナラン。東南方低地ヲ修山谷ト称シ、大樹草木蒼然トシ此間ニ数条ノ散策道縦横ニ通ジ、途中ニ楽焼場、「ソンヨウ亭(ママ)等アリ、診療部及済生会敷地ノ辺ナラン。診療部本館西方ノ松林ハ東京第一衛戍病院敷地ナルモ、此松原ハ道灌物見ノ松ト称セラル。/北方高地ニハ文殊堂、洞阿弥陀、阿弥陀奧ノ院、山里数寄屋等樹間ニ点在シ、大小ノ樹木橋石アリ、大自然ノ縮景ナラン。此地ニ化学兵器研究室及学校本部系統ノ建物ヲ配置ス。現今存在スル樹木ハ実ニ当時ノ面影ヲ暗黙ノ中ニ物語ルモノナリ。/此地ハ帝都ノ最高地域ト隣接シ、海抜百二十尺三寸一分五厘、因ミニ陸軍砲工学校前ヲ最高地トシ海抜百三十尺三寸一分五厘トス。
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 この記述の中に、「洞阿弥陀」とあるのが興味深い。文字どおり洞(ほこら)の中に、阿弥陀仏を祀ったと思われるのだが、高田八幡の境内から古墳Click!(おそらく前方後円墳)の羨道Click!が見つかり、それ以来、江戸期から俗に「穴八幡」と呼ばれるようになったのと同様、古墳の築山が崩れ石組みの羨道が露出した場所があったのではないか。戸塚や戸山地域は、前方後円墳Click!が数多く築造されたと思われるエリアなので、「百八塚」Click!伝承とも関連して強く惹かれる記録だ。
 
 
 諏訪通りのトンネル工事にからみ、戸山ヶ原の地下トンネルClick!について少し書いたが、1929年(昭和4)現在における地下トンネルの総距離が、680.4mだったことも記録されている。それらの多くは、ガス管やスチーム管、上下水道管、電力線などをまとめて収容する共同溝(パイプホール)の役割も果たしているが、設計当初から「地下交通路」として施設間の連絡トンネルとして利用し、さらに「戦時ニ於ケル爆弾投下等ノ場合」、すなわち空襲を意識して建設されているのが明らかだ。
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 地下道ハ各建物ノ基礎ヲ兼ネ、之ニ側壁ト床ヲ設ケタルモノニシテ、一部分ハ屋外ニ特ニ之ヲ設ケシモ、其工費モ基礎工事費以外ニ幾何ノ余分ヲモ要セズシテ築造シ得タリ。地中埋設物ハ概ネ此地下道ヲ利用シタリ。即チ暖房蒸気、瓦斯、水道ノ「パイプ」並電気配線、地下排水土管等ヲモ此中ニ入レ、「パイプホール」トシテ使用セル外、地下交通路トシテ利用シ、戦時ニ於ケル爆弾投下等ノ場合ニ唯一ノ避難所トシテ使用シ得ルノ計画ナリ。
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 ちなみに、この地下トンネル設備の概要および680.4mという距離数は、あくまでも軍医学校が戸山に竣工した1929年(昭和4)現在での仕様および数値であって、1945年(昭和20)の敗戦時まで防空・交通用のトンネルが、あとどれほど戸山ヶ原の地下深くに掘られ、あるいはどのような地下施設がのちに建設されているのか、いっさいが闇の向こうに消えたままだ。
 空襲で焼け残った頑強な鉄筋コンクリート製のビルは、軍事医学研究あるいは化学戦・細菌戦研究という特殊な用途のため、さまざまな換気装置やエアコン設備が導入されていたようだ。特に伝染病菌(ペスト菌やコレラ菌など)の細菌を扱う施設では、バイオハザードを心配して建屋の密閉性が追求され、空調設備は不可欠だったと思われる。1929年(昭和4)の初期段階でも、設計要項には特に「換気装置」と「空気湿度調節装置」の項目が挙げられ、米国ミッドウェスト社製のエアフィルターやスタンレー社製のレジスター(換気・通気装置)の記載が見られ、冷暖房や湿度調節のできる「アドソール空気湿度調節装置」が導入されていたことがわかる。
 
 
 1929年(昭和4)時点における軍医学校の建設費は、総計121万円だった。建設には大林組をはじめ、東京瓦斯、弘電社、高砂鐵工など当時の大企業が名前を連ねている。でも、初期の軍医学校の諸施設は、まだまだ規模が小さかった。日中戦争のドサクサ戦費にまぎれ、さまざまな施設の建設費を捻出していった陸軍は、1945年(昭和20)の敗戦までに戸山ヶ原の東端へ“防疫要塞”とでもいうべき、巨大な軍事医学研究施設(細菌戦・化学戦含む)を完成させていった。

◆写真上:旧・軍医学校で焼け残り、1970年代前半に低空で撮影された厚生省施設のビル群。
◆写真中上:上は、『陸軍軍医学校五十年史』が出版された1936年(昭和11)に撮影された軍医学校中枢部の空中写真と建物配置。下左は、1984年(昭和59)の空中写真。下右は、1989年(昭和64)10月の空中写真で、すでに防疫研究室と標本図書室は解体され国立感染症研究所が建設中なのが見てとれる。同年の夏に、×印のところから大量の人体標本が出土した。
◆写真中下:上左は、1970年代に撮影された旧・防疫研究室ビル。上右は、防疫研究室の跡地で中央にあるサッカーゴールの前あたりにビルは建っていた。下左は、竣工直後とみられる防疫研究室。下右は、その内部写真だが軍事機密のため研究員の顔はすべて真っ黒に塗りつぶされている。中央の両腕を拡げる人物は、細菌培地に使用するカンテン(寒天)を製造中だろうか?
◆写真下:上左は、1970年代に撮影された旧・化学兵器研究室/軍陣衛生学教室(上)と旧・標本図書室(下)の各ビル。上右は、国立国際医療センターに現在も残る地下トンネルへの入口跡。下左は、防疫研究室西側に残された当時のセメント塀Click!。下右は、防疫研究室跡のグラウンドに残る良質な大粒の玉砂利をふんだんに使った、戦前のものと思われるコンクリートブロック。