1925年(大正15)1月に下落合で発行された『木星』(木星社Click!)には、1924年(大正13)12月26日、前日の晴天から一転して雨がそぼ降る中、中村彝Click!のアトリエで行なわれた葬儀で彜を前に読み上げられた、多湖實輝Click!による弔辞(弔詞)の全文が収録されている。彝の書籍や図録には、ほとんど掲載されていないので、ちょっと長くて読みにくいが全文を引用してみよう。
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 弔詞
 避けがたき、はかなき御契にてありけむと思ひあきらめむるものから、さてはつれなき涙に独りくるゝぞ是非なきや。/あはれ、えうなき者は世に長らへ、いたづらなる命を貪ぼれども、惜まるゝ人はなどか斯くばかり其幸薄からむ。春の花の風に妬まれ、秋の紅葉の雨にうらまるゝ例は人の身の上にもありけるよ。/あはれ、君も猶且つ此の数にもれ給はぬぞくちをしきや、まぼろしの不思議を学びて冥府にその御魂をもとめ奉らむか、余りに思ひの外なるに、あらぬ心の迷ひさへ出て来て、呆れ惑ひたる吾等がかなしみはそも何にたとへつべき。/あはれ、あはれ温容純乎として珠の如き君の御俤は吾が眼前にうつれども優しき御声を聞くによしなく、倐ちにして消え去つて倐ちに来る、幽冥途を隔つること、そも幾億万里ぞ。吾等が君をしたひまつれる心は、いかでか其遠きを厭はむ、いかでかうつし世とよみぢとの異なるを問はむ、こゝに君が功業を今更称へ奉るべきにはあらねども望み多かりし御身を以て、はやう世を去りたまへるを思ひては、ありし世の御績をたゝへ奉るべきつとめなきに非ず、実に君のいさほしは斯の道の暁の星として窮りなくその光を仰ぐべきものなりしを、天魔の妬みか鬼神の嫉みか、天寿を傷けて、これを冥路に誘ひ奉る、あゝ何等の悲傷ぞや、今や洋画の道はいや華けくいやさかへにさかへゆくに此一代の巨匠を失ひて世は再び誰れをかたのみ、誰をか仰かむ、輝く星は御空に砕けおちて夕寒き落合の里に再び温厚吾に篤き君が如き人を見るを得んや。
 噫! 宇宙の秩序は万世に紊れず、天体の現象は終に異らず、日昇りて月没し、月きらめきて星淡し、人間の世はしからず、名あるもの亡せて名なきもの長らふ。君は享年讒に三十有八溘焉として黄泉の客となる。無常を伴ふわが世のさまは遂に宇宙の秩序の如くならず、天体の現象の如くならざるなり。/噫々仰いで天に訴へ伏して地に愁ふるも天応へず、地同しふせず、徒らに寂莫の色をあらはして益々悲嘆のおもひを深からしむ。あはれ今は何をか望まん、願くは君の御霊よ安らかに天上の宮にむかへられて神の御座に尊くおはしませ。 (十二月二十六日)
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 文語調による、当時はいわゆる“格調高い”文章表現なのだが、他の人々が寄せる追悼文とともに並べられると、いかにも大時代的でよそよそしく、中村彝という人物像を身近に感じられない。
 
 美術とは畑違いで、植物学が専門だった多湖實輝が彝と知り合ったのは、彝が療養もかねて房総半島の北条湊(現・館山市北条)に滞在している、1905年(明治38)8月のことだった。画家への道を進みはじめたころから死ぬまで、彝の身近にいたにもかかわらず、絵画とは分野が異なるためか、多湖の証言はあまり美術系の雑誌や資料に登場していないので、この際まとめてご紹介したい。
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 それは私も彝さんも共に其年の初夏から病に罹つて転地療養をしたのだつた。其当時の彝さんは浮世の風に染まない純な可愛らしい坊ちやんであつた。夏でも生モスの白いシヤツを着て、端正とでも言ふか、軍隊的な整然たる子供だつた。私や井野英一、小島喜久馬、川下などいふ友人が皆んな画を描いて居たのに引きつけられて、スケツチブツクに鏡が浦の風光を写生しては、私たちの悪評に会つたものだが、然し中々熱心であつた。画が好きになつた動機が私たちにあつたかどうか知れないが、然し確に其刺激になつた事は事実であらうと思ふ。(『木星』第2巻第2号)
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 多湖實輝は日記を欠かさずつけており、彝とは頻繁に手紙を交わしていたらしく、彝の転居情報については非常に詳しく記録している。1898年(明治31)に水戸市上市寺町から東京へ出て、中村一家は牛込区(現・新宿区)原町3丁目7番地の角に銭湯のある2階家へ移り住んだ。つづいて、軍人だった長兄が昇進したのを機に、市ヶ谷刑務所の裏門近くにある厩舎が付属した家=牛込区台町へ移り、つづいて東大久保236番地に転居。名古屋幼年学校時代をはさみ、牛込区河田町9番地・本庄邸内に転居と、彝は現在の新宿区内を転々としている。

 結核に罹患したあと長兄の戦死とともに、相続の手続きで水戸へ帰省するが、このあと北条湊で療養し多湖と知り合う。1905年(明治38)には、多湖とともに熱海や三浦半島、房総ですごし、旅行から帰ると東大久保へと一時転居、ほどなく牛込区(現・新宿区)原町3丁目25番地・願正寺Click!の境内へ引っ越している。ちなみに、大正初期に中野区上高田へと移転した願正寺については、佐伯祐三の『絵馬堂(堂)』Click!がらみの記事Click!で、以前こちらでもご紹介した。このころ、彝は戸山ヶ原Click!を盛んに写生してまわり、水彩画ブームが起きて三宅克己Click!への弟子入りを希望したが、その挑発的で横柄な性格からか三宅の心証を害して入門を断られている。翌1906年(明治39)には、白馬会赤坂溜池研究所へと通いはじめ、多湖とは興津(現・静岡県清水区)へ旅行に出ている。翌年、彝が多湖に宛てた1907年(明治40)2月24日の手紙が、多湖の文章に記録されている。
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 オイ起キロイ、如何カシタノカ。東京ハ最ウ鳥ガ啼キ出シタ。起キロイ! 僕ハ死グ(ママ)相ダ(今年中ニ)。大分ダシヌケダラウ。然し(ママ)事実ダラウヨ。来月カラ上野ノ方ヘ下宿シテ、太平洋ノ研究所ヘ行クンダ。皿マデ食フ積リサ。君ノ方ハ最菜ノ花時ダロウ。蝶ノ恋ヲ怨ンデル君ガ怨マシイ。一昨日ハ雪ガ降ツタ。 四十年二月二十四日 (同上)
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 水戸方言だろうか、彝は「死ヌ」という言葉を一貫して「死グ」と表現していたようだ。この手紙を書いた年、彝は祖母を亡くし、つづいて姉が幕張へ嫁いでしまったため、ひとり暮らしをするために下渋谷豊沢(現・渋谷区恵比寿)の寺へと転居。その後、再び現在の新宿区である大久保百人町122番地に開店していた「杉村時計店」に下宿。次いで、1909年(明治42)には日暮里1054番地の家、4ヵ月たらずで日暮里1067番地・神田方へ下宿、翌1910年(明治43)には日暮里1066番地・晩翠館2階へ転居と、明治末のこの時期、彝は引っ越しを繰り返していた。
 1911年(明治44)12月に、結婚により目白の新居へ引っ越した柳敬助Click!のあとをうけ、新宿角筈12番地のパン屋・中村屋Click!裏のアトリエClick!へ転居。このあとの経緯は、あちこちの資料にも登場するとおり、1915年(大正4)4月には谷中の本行寺Click!の傍らにある有楽館へ、次いで7月には下谷区谷中初音町3丁目9番地・関方に下宿、つづいて9月に下谷区谷中初音町3丁目12番地・桜井方へ転居Click!、そして1916年(大正5)8月、ようやく下落合464番地にアトリエが完成して終の棲家へ引っ越してくる・・・という経緯をたどった。
 
 現在、図録などの巻末に掲載されている中村彝の年譜は、多湖實輝が日記へ几帳面に記録した彝の住所にもとづいて構成されている部分が多いのだろう。ただ、多湖の記述と「公式」年譜とが一致しない点もある。多湖と彝が知り合ったころ、多湖との三浦半島や房総布良の旅行から帰ったあと、多湖によれば彝は「東大久保」へ一時的に転居していることになるが、彝の「公式」年譜では帰京後、すぐに牛込区原町3丁目25番地の願正寺へ転居していることになっている。このころは、しじゅう彝と行動をともにしていた多湖實輝の直接証言なので、年譜のほうの記載漏れだろうか。

◆写真上:牛込区原町町3丁目25番地の、中村彝が住んでいた願正寺跡。
◆写真中上:左は、1915年(大正4)3月19日に伊豆大島から多湖實輝あてに出された彝のハガキ。右は、鈴木良三が描く晩年の『多湖實輝像』(部分/制作年不詳)。
◆写真中下:1906年(明治39)に撮影された牛込柳町界隈で、おそらく彝も目にした光景だろう。
◆写真下:左は、1908年(明治41)に福島旅行時に制作された中村彝『中之作風景』。右は、1909年(明治42)制作の『曇れる朝(習作)』。同作の完成品は新宿中村屋が購入し、長く同店のショウウィンドウに飾られていたが戦災で焼失Click!している。