鈴木三重吉Click!が主宰する「赤い鳥」Click!などに掲載されたカルピス広告Click!を、これまでいくつかご紹介Click!してきた。そんなカルピス広告シリーズで、武井武雄Click!がイラストを担当した1928年(昭和3)の媒体広告があるのでご紹介したい。「カルピス兵隊」とタイトルされた広告なのだが、「カルピス兵隊、一、二、三、足並そろへて、一、二、三・・・」と西條八十Click!によるコピーが添えられている。「コビン一ポン二十セン タップリコップニ三バイブン」と書かれているが、当時の清涼飲料としてはラムネやサイダー、ジュースなどに比べればかなり高価だ。
 滋養強壮によく、栄養補給(特にカルシウム摂取)には最適な飲料ということで、武井は「元気な兵隊」イラストを描いたと思われるのだが、見方によってはカルピスがないと生きてはいけない人たち・・・のようにも見える。事実、カルピスが病みつきになり、毎日飲むのをやめられなくなってしまった人たち、カルピス「依存症」の人たちが少なからずいたようだ。下落合のアトリエで闘病生活をつづける、中村彝Click!もそんな「カルピス中毒」Click!になったひとりだった。
 わたしが子どものころ、湘南海岸の浜辺ではカルピスを壜ごと、そのままラッパ飲みするのが、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちの間で流行っていた。もちろん、壜から直接のラッパ飲みなので、濃い原液のまま飲んでいたわけだが、流行りのカッコつけとはいえ彼らも少なからず「中毒」になっていたにちがいない。その情景は、桑田佳祐が制作した『稲村ジェーン』Click!(1990年)にも記録されている。当時は、フルーツカルピスというのが何種類か発売されていて、いろいろな風味を楽しめたわけだが、原液のままだからノドがヒリヒリするほど甘かっただろう。糖分の摂りすぎで、サーフィンや海水浴以上に身体が冷えたお兄ちゃんやお姉ちゃんがいたのかもしれない。
 カルピスは、水やお湯で割って飲むのが発売当初からの“お約束”で、水による希釈の方法まで解説した広告が出ている。初期の400ml壜を水で薄めて2升(3600ml)にすると書いてあるので、なんと9倍に希釈して飲むことが推奨されていたことになる。1922年(昭和11)に、容器がひとまわり大きくなり青い水玉の580ml壜が誕生するのだが、1960年代のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちと同様、つい1日1本を空けてしまう人たちもいたようだ。大正期の広告には、「一度飲んだらやめられぬ、カルピス」というキャッチフレーズの広告も多い。

 中村彝がカルピスに病みつきになったのは、1920年(大正9)の4月ごろからだから、カルピスが新発売された1919年(大正8)の翌年、まだ間もない時期のことだった。きっかけは、「パン屋のオヤヂ」こと新宿中村屋Click!の相馬愛蔵Click!が病中見舞いに、下落合のアトリエへとどけてきたのがはじまりだ。以下、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』所収の書簡、1920年(大正9)5月3日付け洲崎義郎(すのさきぎろう)あての手紙から引用してみよう。
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 この頃は毎食後カルピスと云ふものを飲んで居ります。乳酸カルシュームに葡萄糖等を入れて、「口あたり」のいゝ飲料にしたものです。僕の病中に中村パン屋のオヤヂが見舞に呉れたのですが、これが又馬鹿に旨しくて迚(とて)も止めることが出来なくなりました。そしてたうとう一壜を平けて、今改めて三壜注文した位です。これは胎児を持つ母親、つはりの患者、乳児を有する母親(これ等の骨成分を補ふ)等に卓効があるさうですから、「政子さん」等にもきつといゝだらうと思ひます。それに味が猛烈にいゝから、飲料品としても素敵です。
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 ・・・と、もうベタぼめだ。当初は、水で少し薄めて飲んでいたのかもしれないが、だんだんと摂取量が多くなり、毎日1壜空けるようになってしまったことが友人の記録にも残っている。
 
 「パン屋のオヤヂ」としては、結核が少しでも快方に向かうようにと見舞いにとどけたのかもしれないが、結果的に彝は「カルピス中毒」となってしまい、結核がどんどん悪化していく晩年には糖分を大量摂取することになってしまった。当初、お見舞いにとどけられたカルピスは、最初期の紙箱に入れられた400ml壜だったのだろうが、580mlの青い水玉パッケージの徳用壜が発売されると、彝はさっそく大壜のほうを買うようになった。彝が描いた『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)の花瓶に敷かれた包み紙は、1922年(大正11)に発売された580ml徳用壜Click!のほうだ。これを毎日1本空けていたら、どんな健康な身体でも具合が悪くなりそうだ。
 そんな目で、改めて武井武雄と西條八十の広告を見ると、なんとなくカルピスが病みつきになってしまった人々が、カルピスを手放せずにいつも背負って歩いているようにも見えてくる。中村彝が存命中、1920年(大正9)当時のカルピス広告にはこんなコピーが載せられていた。
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 婦人の保健 胎児の栄養 飲めば甘露の滋養料 一度飲んだらやめられぬ。
 カルピスはカルシウムとカルピス即ち甘露味との合成品で四千年来の経験と最新科学の生んだ甘味で滋養の飲料です 体調を整へ、妊婦は胎児を強壮にする特別の滋養分があります、又老人にも少年にも病者も壮者も人生の高貴なる悦楽に酔うべき甘露味であります 全国到る処、酒店、食料品店薬店にあり、品切のときは一壜でも届けます。 東京日本橋際 国分商店
 一壜を水又は湯に薄めますと二升になります (句読点ママ)
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 わたしはカルピスが好きだけれど、たとえ水で希釈したとしても1日1壜は飲めない。湘南のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、その後、体調は大丈夫だったろうか。カルシウムを摂るつもりが、過度の飲みすぎで骨や歯がもろくなってしまったのではないか? 中村彝は、いまだ身体を動かすことができた時期、俥(じんりき)に乗って大塚の歯医者Click!へ頻繁に通いつづけていたようだが、カルピスの飲みすぎで歯がボロボロになっていたのではないだろうか?

◆写真上:下落合で保存の準備が進んでいる、中村彝(鈴木誠)アトリエの現状。
◆写真中上:武井武雄のイラストと西條八十のコピーによる、1928年(昭和3)のカルピス広告。
◆写真中下:桑田佳祐が1990年に制作した映画『稲村ジェーン』(1990年)に登場した、わたしには懐かしい記憶のカルピスをラッパ飲みするお兄ちゃんたち。
◆写真下:上は、1919年(大正8)に発売された初代カルピス(左)と、1922年(大正11)に発売された580ml入りの徳用壜カルピス(右)。下は、1920年(大正11)のカルピス広告。