私営の日本鉄道が敷設した品川・赤羽線が、明治政府の鉄道院(のち鉄道省)によって買収され、それを活用した山手線の高田馬場駅が設置される際、駅名をめぐり地元住民との間でスッタモンダの反対運動が起きたことは、すでに記事Click!へ書いたことがある。
 のち、鉄道院(省)は駅名をめぐり、結果論的なツジツマ合わせの付会を「公式」記録として残しているようだけれど、本来の高田馬場(たか【た】のばば)周辺に住む人々の反対を封じこめるために、高田馬場(たか【だ】のばば)駅は高田馬場の地名とはいっさい関係のない、鉄道院のオリジナル駅名だなどとするメチャクチャなことを言い出して、地元の高田(た)村(高田町)や戸塚村(戸塚町)の反対運動をねじ伏せた。これにより、現在でも幕府直轄の練馬場である高田(た)馬場と、駅名なのにその土地の地名を唯一反映しなかった高田(だ)馬場駅とは、地元ではまったく関連性がない架空の名称とされており、山手線の駅名にはわざわざ「たかだ」とルビをふった地域資料も目につく。
 山手線が成立する前後には、鉄道の敷設や停車場の設置をめぐって、計画予定地の地元ではさまざまな反対運動が繰り広げられている。かなり強烈な運動だったたせいか、日本鉄道または鉄道院では用地買収が進まず、線路のルートや停車場の位置決めに苦慮している。その反対理由のいくつかを、面白いのでご紹介してみよう。
 
 まず、鉄道が敷かれると線路に沿って建てられる電柱に、スズメが数多くとまるようになり、付近の田畑の穀物を食い荒らす被害が増えるからダメ・・・という反対運動があった。この運動が起きたのは、肥沃な田畑が拡がっていた目黒村だ。別に電柱が設置されたからといって、周囲には雑木林や屋敷林も多いことだし、ことさらスズメさんが数多く集まるとも思えないのだけれど、当時は真剣に議論されたテーマだ。そのせいで、目黒地域の線路は田畑が拡がる平地を避け、村はずれの山の中に敷かれることになり、山を切り拓く大工事になってしまったようだ。駅も山の上に設けられ、目黒村の境界からは外れている。いまでも当時の痕跡は顕著で、目黒駅は目黒地域に存在せず、東側の村外にあたる上大崎地域(現・品川区)に位置している。
 また、品川駅や新宿駅、板橋駅などの周囲では、それまで繁栄していた宿場街がさびれるという理由から、線路や停車場を近くに設置しないよう反対運動が起きている。今日の視点でみると、交通の便がよくなり駅ができたほうが街も栄えるし、まるっきり逆じゃない?・・・と感じてしまうのだが、当時は騒音や煤煙などで環境が悪化し、街の雰囲気が損なわれるという考え方が支配的だったようだ。鉄路を走る蒸気機関車(陸蒸気)が、まだまだ当時はうすっ気味(きび)の悪い“怪物”のようなイメージで捉えられていたせいだろうか。中には、近くを蒸気機関車が走ると、その震動で米や麦の生育が悪くなる・・・なんて反対運動もあったらしい。
 
 さらに、今日的な視点から見るなら、的をえている反対理由もあった。いわく、停車場ができると諸外国の悪疫が運ばれてきて、街中にごく短い時間で伝染病が蔓延する怖れがある・・・。先の新インフルエンザ騒ぎでは、空港や鉄道駅と運輸ルートそのものが、おそらくウィルスを運ぶ媒体・ターミナルと化していた様子がうかがえるのは記憶に新しい。当時の日本人は、海外で流行する伝染病の免疫がまだまだ不十分であり、「お染風」Click!(おそらくインフルエンザ)や「スペイン風邪」によって多数の人々が生命を落とす事態が、このあと現実化してくることになる。特に交通網が密な都市部では、きわめて短期間で伝染病が蔓延する深刻な状況をまねいている。
 こうして、目黒駅ばかりでなく、新宿駅や品川駅、板橋駅も街道の旧宿場=繁華街からかなり外れた位置に鉄道が敷かれ、停車場が設置された。新宿駅は、内藤宿から数百メートルも離れた雑木林の中にポツンと建てられ、品川駅は品川宿の繁華エリア外、高輪(現・港区)の海っぺりに寂しく設置され、板橋駅も繁華街から遠く離れたところへ建設された。結果、旧宿場のにぎやかだった街は徐々にさびれ、駅周辺が急速に繁華になったのは周知のとおりだ。
 そういえば、高田馬場駅と同じく家から最寄りの目白駅Click!も、江戸期以前の古い時代から「目白」と付けられていたと思われる崖線沿いの斜面、現在の「目白台」の地名が残る位置からは西へ1km以上もずれた、高田村金久保沢Click!の谷間(のち橋上駅化)へ造られている。もっとも、「メジロ」はバッケから湧き出る砂鉄(金=かね)を精錬して得られる鋼(はがね)の古語であり、古代の鉄の精錬場があった関係から付けられた古地名であるとすれば、金久保沢Click!=金和久(湧く)乃沢にできた停車場へ「目白」Click!と付けたのは、非常に言いえて妙な駅名となるのだけれど・・・。
★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 
 鉄道敷設に関する、このような反対運動のエピソードは別に過去のことではなく、現在でも地下鉄の貫通工事などでときどき耳にする話だ。家の敷地の下を地下鉄が通ると、「騒音や振動が心配だ」という声を聞くけれど(事実、横浜市営地下鉄ではそのような弊害が生じているようだ)、同時に「あのとき地下鉄に反対しなければ、もっと便利になってたのに」という声も聞こえてきたりする。もっとも、地上と地下とでは、また大きく事情が異なることも多そうなのだが・・・。

◆写真上:ときどき人の姿がほとんど消える瞬間がある、たそがれどきの新宿駅西口。
◆写真中上:左は、1885年(明治18)の開設当初に設置された初代・新宿停車場で、初代・目白駅と同様に写真が見あたらない。右は、明治末から大正期にかけての二代目・新宿駅。
◆写真中下:左は、明治期の駅売店。右は、1925年(大正14)に竣工した三代目・新宿駅。
◆写真下:左は、明治期の新宿踏み切り界隈。右は、現在の新宿駅東口。