1923年(大正12)の早春、湘南・鵠沼で暮らしていた岸田劉生Click!のもとへ、唐突に2通の手紙が配達された。2月25日、午後になって雨が降りはじめた寒い日曜日のことだ。ちなみに、当時の郵便局は地域によるのかもしれないが、日曜日にも配達していた。1通は、白馬会葵橋研究所Click!で世話になった、いちおう劉生の師匠である東京美術学校の黒田清輝Click!であり、もう1通は早稲田大学学長だった高田早苗(総長は故・大隈重信のまま)だった。劉生と黒田清輝とはほとんど交流がなかったので、当時のふたりの関係を考えると異例のことだ。
 劉生は大いに胸をふくらませて、ワクワクと期待したことだろう。手紙の内容は、3月3日に上京して上野精養軒Click!まで来られたし・・・というような内容で、画家たちを集めてのディナーパーティ、およびなんらかの打ち合わせを予定している様子がうかがわれた。高田早苗からの手紙も、ほとんど同じ招待状の内容だったようだ。劉生は、「ついに来たか!」・・・とウキウキしたにちがいない。そのときの様子を、『岸田劉生全集』第8巻―日記―(岩波書店/1979年)から引用してみよう。
  ▼
 (前略)高田早苗、黒田清輝氏等から二通手紙あり 三月三日に静養軒(ママ)へ来てくれとの事 神宮の壁画の事だとうまいが。小野さんから明画花鳥を送つてくれた由、楽しみ也。
  ▲
 劉生が期待したのは、「神宮の壁画」の仕事がついに自分へまわってきたのかも・・・と思ったからだ。「神宮の壁画」とは、神宮外苑に計画されていた「聖徳記念絵画館」(通称・絵画館)の壁をかざる大画面制作のことだ。1923年(大正12)の当時、青山練兵場Click!をつぶした神宮外苑の整備および絵画館などの建設計画はかなり進捗しており、絵画館内の作品を制作する画家の選定が具体化してきている時期でもあった。黒田清輝から呼び出しの手紙をもらった劉生が、真っ先に絵画館の仕事を思い浮かべたのも無理はないだろう。でも、なぜ早稲田大学の高田早苗が関係してくるのかが、腑に落ちなかったかもしれないが。
 1923年(大正12)3月3日(土)、岸田劉生は朝から仕事が手につかない。藤沢駅から、2時59分発の東海道線に乗って新橋へと向かい、バスで上野までいって用事を済ませたあと、俥(じんりき)で上野精養軒へと向かった。精養軒に着き、案内されるままディナー会場へ入ると、山本鼎、山下新太郎、梅原龍三郎、長谷川昇、有島生馬・・・などなど、続々と知り合いや顔なじみの画家たちが集まってきたので、劉生は少しリラックスしたようだ。劉生の隣席には、水彩画家の三宅克己Click!が座って食事をすることになった。3月3日の日記から、食事会の様子を引用してみよう。
 
  ▼
 新橋から乗合にて上野広小路迄件兼葭堂(けんかどう)へ寄つてみたらまだ帰つてゐず、神戸迄は帰つてゐるらしい。柯九思の鹿三幅の表具の出来たのをうけとる。中々よくなつた。それから俥にて静養軒(ママ)へ、山本鼎梅原、長谷川昇など来て話合事出来ほつとする。有島、山下、其他の連中も来てあり、三宅さんは余のとなりに坐つてめしを食ふ。
  ▲
 余談だけれど、喧嘩っぱやい劉生が、いつも出入りしていた上野広小路の親しい画商が、兼葭堂(けんかどう)というのが何度読んでも笑ってしまう。また、三宅克己だけに「さん」づけして書いているのも面白い。劉生の日記では、かなり先輩の画家たちも、すべて呼び捨てか「君」づけで記されており、同業者への「さん」づけは例外的だ。これは、劉生が三宅のことを特に気に入っていたからではないだろうか。なぜ気に入っているのかといえば、三宅は中村彝Click!のことを快く思ってはおらず、おそらく「礼儀知らずのベラボー(大バカ)野郎」などとボロクソに言っていた時期があっただろうから、劉生はことさら親近感を覚えたのではないか。w
 さて、楽しい画家仲間との食事会が終わって会合の目的に話がおよんだとき、劉生は唖然としたあとガッカリして、だんだん腹が立ってきただろう。「神宮の壁画」制作とは、まったくなんの関係もない、寄付のお願いの集会だったのだ。それでなくても貧乏なのに、劉生は寄付制作などしている経済状態ではなかった。自分が寄付してほしい立場であり、またわけのわからないムダな仕事をしたら、蓁夫人Click!から文句を言われるのは目に見えている。劉生は心の中で、「バッカ野郎!」と怒鳴ったにちがいない。でも、精養軒の美味いご馳走は、みんな飲み食いしてしまったのだ。
 
  ▼
 ところでその会を、明治神宮の壁画と思ひこんでゐたのは実に余のもの知らずであつて、山本に内々で聞いてみたら寄附だらうと云つたが早稲田大学講堂とかの寄附のため展覧会をしたいから画を出してその割を寄附してくれとの事、南柯の一夢がどうも一時にさめて何の事だいと云ひ度くなつた阿々。黒田清輝氏等の口ぞへにてとも角展覧会する事になり、九時其処を出て、少し中腹でブラブラ荒井へ行つてみる。大したものなし。
  ▲
 「早稲田大学講堂とかの寄附」と聞いて、劉生は耳を疑っただろう。黒田清輝とは、白馬会で師弟の関係であり、親しくないとはいえ同じ美術分野だから関係がないわけでもないが、高田早苗ましてや早稲田大学とはまったくの無関係だ。なぜ自分にこんな役目がまわってくるのか、劉生には理解できなかったにちがいない。でも、精養軒のご馳走は、食べてしまった・・・。
 この時期、画壇のボスである黒田清輝から、「大切な用事があるから、ちょっと来てくれ」というような手紙をもらったら、たいていの画家なら絵画館に納める作品の制作と結びつけて考えたにちがいない。「ついに、声がかかったか!」と、たいていの画家ならウキウキと呼び出された場所へ出かけただろう。すでに内容を知っている事情通の画家は、「黒田の口ききだからしょうがないか」としぶしぶ出かけていったか、あるいは「じゃあだんじゃないぜ」と欠席しただろう。劉生は鵠沼に引っこんでいたので、美術界の情報は伝わりにくかったのだ。
 とても賢いというか、言い方を変えれば非常にズルイというのか、早大の高田早苗は当時のそんな画家たちの環境や心理を読んで、美校の黒田清輝を巻きこみ“招待状”を配布したのにちがいない。事情をよく知らない画家たちは、劉生と同じようにいそいそと精養軒へ集合したことだろう。いくら大学講堂の建設費用集めとはいえ、どこかサギのような臭いがするので、劉生は高田のことを「いまいましい野郎だ」と思ったにちがいない。激怒ではなく「中腹(ちゅうっぱら)」で収まっているのは、やはり師匠格の黒田の手前もあるのだろうか。それに、ご馳走は食べてしまったし・・・。
 
 のちの3月20日、劉生は早大講堂(のちの大隈講堂)建設のために、すでに仕上げて知り合いに預けていた作品を2点、しぶしぶ供出している。でも、この年の9月1日に起きた関東大震災Click!により、早大講堂の建設は大幅に遅れてしまう。寄付をした劉生の2作品も、火災で灰になってしまったのかもしれない。当時の画家たちへも寄付を募って(半分だますようにして)資金を集め、ようやく早稲田大学に大隈講堂Click!が完成したのは、1927年(昭和2)のことだった。
 キツネにつままれたような劉生は、メエトル黒田Click!を「なぐってしまう!」わけにもいかず、しばらくは「何の事だい」という気分がつづいただろう。タダの飲み食いほど、高くつくものはないのだ。

◆写真上:1927年(昭和2)4月に、大隈講堂の屋上で行なわれた棟上式。背後にある丘陵は目白崖線で、宮司の右手に巨大な藤田邸の西洋館(現・椿山荘)が見えている。
◆写真中上:画家たちを集めてカンパニア・パーティをたくらんだ、高田早苗(左)と黒田清輝(右)。
◆写真中下:左は、青山練兵場跡の神宮外苑に建設された絵画館。右は、建設中の大隈講堂。
◆写真下:岸田センセが怒っているのは、大隈庭園側(左)からと正門側(右)から見た大隈講堂。