関東大震災Click!に関する資料、震災記念絵葉書あるいは震災復興記念絵葉書を調べていたら、意外なことに昭和初期に“復興”したばかりの、わが家の写真を見つけた。「わが家」といっても、わたしは一度も住んだことがなく、東京大空襲Click!で焼けてしまった東日本橋に建っていた、わたしにとっては幻の実家だ。江戸期には、日本橋米沢町とも柳橋(のち元柳橋)とも、また薬研堀とも呼ばれた一画で、昭和初期には日本橋両国(西両国)とも呼ばれていた。
 低空の飛行機から撮影されている絵葉書は、タイトルが「新大東京名所・機上ヨリ見タル両国橋及国技館・両国駅(Rygoku bridge)」となっていて、架けかえられたばかりの両国橋(大橋)を中心に、隅田川(大川)や神田川をはさんで東日本橋、柳橋、本所一帯がとらえられている。いまだ古いドーム建築の国技館が、本所回向院の境内に建っており、長谷川利行Click!が衣笠静夫Click!のもとへ頻繁に通ってきていた、手前に見えている東日本橋の丸美屋(ミツワ石鹸)Click!本社ビルも、竣工したばかりのころだろう。おそらく、震災で被害を受けた両国橋が40mほど川上に位置をずらして架けかえられた、1932年(昭和7)のうちに撮影された空中写真だと思われる。
 画面を少し細かく見ていこう。中央に架かっているのが、もちろん江戸初期から架橋されている両国橋(大橋)Click!だが、左手に見えるアーチ橋は総武線鉄橋、そのさらに上流にあるのが蔵前橋だ。左端に写る蔵前橋の川向こうには、本所公会堂(現・両国公会堂=旧安田庭園)のドームが見えている。その右手へ視線をずらしていくと総武線鉄橋の先には両国駅があり、駅舎は当時も現在もそのまま変わっていない。視線をずらし、川向こうの本所側を右へ見ていくと、大正通り(靖国通り)をはさんで回向院Click!に隣接した緑のドーム屋根の本所国技館が建っている。国技館の手前、両国橋の東詰めには、子供のころにときどき家族で出かけた「ももんじや」Click!の2階家が見てとれる。いまや、江戸期からつづく「ももんじや」(肉料理屋の一般名称)は、ここだけになってしまった。

 
 その「ももんじや」から大橋をわたり、手前の日本橋側の西詰めにくると、橋のたもとには1銭蒸気(ポンポン蒸気)の発着所がはっきり見える。画面左側に見えている川が、いまわたしの住んでいる下落合からつづく神田川(神田上水)の河口であり、神田川をわたった向こう側が「柳橋物語」Click!でご紹介してきた、江戸東京でもっとも洗練されたエリアの柳橋だ。神田川河口の左岸には、ひときわ大きな屋根の料亭「亀清楼」や「柳光亭」が見えている。1960年代の後半、当時は小学生だったわたしは、親父に連れられて柳橋芸者の引退式Click!に出席している。親父が卒業した、千代田小学校の同級生だった人で、すばらしくイキな女性だった。酒が1滴も飲めないにもかかわらず同窓会を柳橋で開いたり、ここの料亭で美味い江戸前料理を食べていたのは、地元の千代田小学校を出た芸者が何人かいたからなのだろう。まだ40代だった同級生が引退したのは、神田川や隅田川の汚濁がピークを迎え、とても料亭遊びや舟遊びなどできる環境ではなくなってしまったからだ。
 柳橋から目を右手に移すと、屋上の塔に赤い丸美屋の旗がたなびくミツワ石鹸の本社ビルが目につく。すずらん通りClick!をはさみ、その本社ビルのまん前にわたしの実家の屋根が写っている。この屋根の下に、祖父母やいまだ小学生の親父がいるのかと思うと、妙な感覚にとらわれる。屋根上か、あるいはミツワ石鹸の本社ビルに入って望遠レンズで写したものか、ちょうど同じころに撮られた写真を、以前ここでもご紹介Click!していた。東京大空襲Click!をくぐり抜けた、数少ないわが家の写真の1枚で、親父の手元のアルバムにかろうじて残っていたものだ。
 

 すずらん通り沿いには、村田キセルや小林信彦Click!の和菓子・立花屋Click!、くがや呉服店、刀剣・壺屋、洋食・芳梅亭などが並んでいる。写真の画面右下には薬研堀不動が見えており、その前の道が江戸期の薬研堀跡だ。薬研掘が埋め立てられたころ、薬研掘不動も西へほんの少し移動しているようだ。また、ミツワ石鹸本社ビルの右手には、かろうじて千代田小学校(現・日本橋中学校)の復興校舎の一部が見えている。落合地域にも馴染み深い辻潤Click!が、英語教師をしていた千代田小学校の屋上から撮影した大正末の震災復興記念写真も、以前こちらでご紹介していた。その写真では、両国橋が震災時のままだし、ミツワ石鹸の丸美屋本社ビルはまだ建てられていないので、1925年(大正14)ごろに撮影されたものだろう。
 画面左下にある十字路が、神田川に浅草橋が架かり蔵前方面へと抜ける千代田城の浅草御門跡なのだが、木村荘八Click!が生まれた牛鍋のチェーン店「いろは」第八店は、両国広小路が元柳町をつぶして両国橋とともに北側へ40mほど移動しているので、すでに防火帯として新たに建設された両国広小路(大正通り=靖国通り)の下になってしまっている。江戸中期から後期、さらには明治期にかけて、このあたりは江戸東京でも最大の繁華街だったわけなのだが、大震災と大空襲のたび重なるカタストロフと、東京オリンピックによる地域性を無視した乱開発、さらに70年代にピークを迎えた隅田川や神田川の汚濁によって、往時の面影が薄れた下町のひとつとなってしまった。住民たちの多くは、街が壊されていく東京オリンピック前後に「郊外」=新乃手へと引っ越し、中央区の人口はほどなく半減してしまう。(いまの人口はやや回復しているようだ)
 
 
 日本橋界隈(旧・日本橋区)を散歩していると、関東大震災のあとに建てられたコンクリート製の耐火ビルを、いまだあちこちで目にすることができる。繰り返された空襲からも焼け残り、手入れをされてきれいに使われている震災復興建築を見ると、二度と同じ惨禍を繰り返すまいという、当時の人々の強固な意志と熱いメッセージが伝わってくるようだ。

◆写真上:1932年(昭和7)に発行されたとみられる、震災復興絵葉書の両国橋界隈。
◆写真中上:上は、同絵葉書に写っているものの解説。下左は、黄昏が迫る両国橋の現状。下右は、暮色が濃くなると独特なイルミネーションやランプが灯る柳橋の現状。
◆写真中下:上左は、わが家のアルバムに残る1935年(昭和10)ごろに撮影された数少ない実家あたりから北側の眺望写真。手前には両国橋、奧に総武線鉄橋、大川をはさんだ向こうには本所公会堂(現・両国公会堂=旧安田庭園)が見えている。上右は、震災復興校舎が竣工した千代田小学校(現・日本橋中学校)。下は、アルバムに残された写真の撮影方向。
◆写真下:上左は、色とりどりのガラスが店先に嵌めこまれていた木村荘八『いろは牛鳥肉店大八支店』。上右は、その店内を思い出しながら描いた木村荘八『牛肉店帳場』(1932年)。下は、日本橋界隈(旧・日本橋区)を散歩するとあちこちで見かける震災復興耐火建築。