いまでもそうだが、内科医や外科医よりも歯科医Click!のほうが気軽で、気やすくかかれる感覚が残っている。といっても、湘南の魚をイヤだというのに骨ごと親から無理やり食べさせられたわたしは、生れてこのかた虫歯がないので、健診とクリーニングに通うだけだから、虫歯のある方は歯科医Click!がもっとも気が重く、また行きづらい医者なのかもしれないけれど・・・。
 歯科医のほうが気やすいというこの感覚、通常の医師は生命を扱う「高尚な専門技術者」であり、歯科医師は「口腔のみの専門職人」である・・・というような風潮は、明治期から大正期にかけての帝国大学医科大学(現・東大医学部)における徹底した差別意識から生じているようだ。わたしにとってはどちらも「医者」(いずれも人間の身体を対象とする技術者=専門職人)であり、なんら区別する要素を見いだせないのだが、大学や学会では相変わらずこのような差別意識が色濃く残っているらしい。モノを摂取する歯を含めた口腔は、健康を維持するカナメとなる人体の基盤であり、医学では身体のバランスを支える重要な器官にちがいないと思うのだが。
 おかしなことに、医師と歯科医師とをことさら区別したがるのは、日本の医学界だけだ・・・という話も聞く。法律的にも、「医師法」と「歯科医師法」(ちなみに歯科医士たちが制定を働きかけたものではなく、明治医会の医師たちが一方的に別の法律として準備したもの)が象徴的なように、歯科医師だけが“特別”視され爪はじきにされており、この差別も帝大を中心とする明治医会の差別意識と、同法を官僚的権力争いの“道具”に用いた結果らしいことがいまに伝わっている。当時の日本では、医者は大学の医学部を卒業していれば「学士」だが、歯科医の学校は「専門学校令」の範疇であり、卒業しても「得業士」の資格しか得られない期間が長くつづいていた。当時の様子を、「群馬県歯科医学会」第15号(2011年)掲載の村上徹「島峰徹とその時代」から引用してみよう。
  ▼
 医師法と歯科医師法が相次いで制定されたのは明治39年であるが、この立法に深く関与した川上元治郎、入沢達吉ら明治医会の有志らの頭にあったのは、如何にして医業から歯科医を排除するかであった。平たくいえば、彼らは、「医師は歯科医師ではないが歯科の業務はできる。しかし、歯科医師は歯科以外の業務はできない」という主旨のことを、どのように立法化するかということに腐心したのである。(中略)/しかし、医師法制定に際して、この法律が規定する「医師」に「歯科医師」が含まれていないことに気づいた歯科界は、遅まきながら憤激した。このとき川上元治郎らは、待ち構えていたように忽ち≪歯科医師法≫をまとめ、議会に働きかけて医師法に次いで急ごしらえで立法化した。(中略) 端的にいえば歯科医師は、医師の業界の法である医師法から爪弾きされて、歯科医師法という狭いワクの中に閉じ込められたのであって、歯科医師が自らの身分と業権の確立のために自発的に働きかけて立法化したものではないのである。
  ▲
 
 
 日本の歯科医学は、そもそも出発点から“不幸”を背負っていた。1915年(大正4)に帝大へ歯科学講座が設置されるが、その初代の主任助教授(のち教授)に就任した石原久という人物は、まったく歯科医学に対してやる気がないばかりか、自身の担当教室であるにもかかわらず軽蔑していたフシが見える。つまり、歯科学講座を担当させられたということは「冷飯食らい」と受け取る、彼も典型的な帝大の「学士」意識のかたまりだったようだ。
 1920年(大正9)には、歯科医学の発展をめざして研究に打ちこんでいた石原教室の医師9名が、「石原久教授退官勧告状」を大学当局に突きつけるという、帝大では前代未聞の騒動をまねいている。このような人物が、歯科医学の初代責任者に就いたばかりに、帝大医学部における同分野の発達は他校より大きく遅れ、のちに帝大は歯科医学の「専門学校」から教師を派遣してもらい、教示を受ける立場にまで零落してしまった。
 「歯科医師は医師としての機能を有せず、死亡診断書の下付ができず、口腔、顎の大手術ができず、全身麻酔、静脈注射ができず、医師免許なしにかかる行為をすれば起訴される」(島峰徹の第9回国際歯科医学会講演/1936年ウィーン)という状況は、現在でもほとんど変わっていない。このような状況下で、日本の歯科医学を世界の最先端へ押し上げようと奮闘していたのが、東京医科歯科大学(旧・東京医学歯学専門学校)の初代校長・島峰徹Click!だ。下落合の島峰徹については、以前にも記事でチラリと触れており、第二文化村にできたばかりの「延寿東流庭園」の敷地(島峰家が新宿区へ寄付)に住んでいた、日本の歯科医学のパイオニアだ。同庭園は箱根土地本社Click!の「不動園」Click!以来、目白文化村Click!では初めての本格的な公園となっている。
 
 
 島峰徹は、金沢四校から帝大医科大学と同大学院へ進み、1905年(明治38)に卒業すると当初は私費で、途中からは文部省の官費でドイツへ8年間も留学している。当時の留学生としては、異例の長さだ。1914年(大正3)12月に帰国すると、さっそく帝大歯科学講座の講師に就任するのだが、ぜんぜんやる気がない自身の担当学問を蔑視する石原と意見がまったく合わず、すぐに講師を退任している。翌1915年(大正4)には、目白通りをしばらく東へ進んだ左手(北側)、小石川区雑司ヶ谷120番地にあった文部省医術開業試験付属病院(地元での通称は「永楽病院」)の歯科医長に就任。翌1916年(大正5)には、同病院が帝大小石川分院として組織がえとなり、島峰は新たに敷地内へ設置された歯科医術開業試験付属病院の院長になっている。
 このころまで、島峰はいまだ帝大の歯科医学分野の停滞を一新し、医学部に歯学科を設置することをあきらめていなかったようなのだが、石原教授が学内で彼についてあることないこと中傷してまわっているのを伝え聞いた島峰は、ついにこの大学を見かぎったようだ。その後、歯科医学を軽蔑してやる気のない「石原教授」問題は、医学部内でも大きな紛糾をまねき、医師たちが連名で当局へ前代未聞の「退官勧告状」を提出したことはすでに記した。
 島峰は、歯科医術開業試験付属病院を足がかりに、国立の本格的な歯科医学校の設置を文部省に働きかけ、1928年(昭和3)ついに東京高等歯科医学校が創立され、のち彼は校長に就任している。でも、同校は「専門学校令」下に設置された教育機関であり、卒業しても「学士」ではなく「得業士」の資格しか得られない状況はまったく変わらなかった。やがて、日本が太平洋戦争に突入すると、陸海軍の軍医不足を補うために同校へ医学科が設置され、1944年(昭和19)に同校は東京医学歯学専門学校に改称している。戦後の1946年(昭和21)、ようやく島峰が夢みた国立東京医科歯科大学として生まれ変わり再スタートを切るのだが、彼は歯科医学の最先端をリードしはじめるその姿を見ることなく、敗戦直前の1945年(昭和20)2月に死去している。
 
 
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』にも、島峰徹は278ページの島津源吉Click!の隣りに収録されている。同書では、島峰徹の住所が「下落合七六」と記載されているが、これは地番ではなく目白文化村の邸番号Click!(敷地番号)だ。正確に書くなら、「下落合・目白文化村七十六号」だ。島峰邸が建っていたのは、下落合1705番地の第二文化村・第76号邸ということになる。第二文化村の延寿東流庭園は、いまだ樹木が若くて林を形成していないけれど、あと10年もすれば鬱蒼とした公園になっているかもしれない。庭園名につけられた「東流」とは、島峰徹の雅号だ。

◆写真上:現在は「延寿東流庭園」となっている、第二文化村の島峰徹邸跡。
◆写真中上:上左は、1924年(大正13)の地図に見る医術開業試験付属病院(永楽病院)。上右は、おそらく帰国前後に撮影された島峰徹。下左は、東京高等歯科医学校における島峰校長の講義風景。下右は、1941年(昭和16)に出版された『東京高等歯科医学校写真帖』。
◆写真中下:1935年(昭和10)ごろに撮影された、湯島の東京高等歯科医学校第1付属病院(上左)と神田の同第2付属病院(上右)。下は、同年ごろの湯島キャンパス(下左)と本館中庭(下右)。
◆写真下:上左は、1925年(大正14)の箱根土地「目白文化村分譲地地割図」にみる第二文化村の島峰邸。上右は、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」にみる島峰邸。下左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる島峰邸。下右は、湯島にある東京医科歯科大学のキャンパス。