上落合の原っぱを、林武Click!とともに裸で走りまわっていた林重義Click!の人柄から、鷹揚な性格を想像していたのだが、実際はかなりちがっていたようだ。以前に、パリ郊外のモランで仕事をする佐伯祐三Click!の背後から、林重義と伊藤廉が連れ立ってのぞきこんでいた様子を記事Click!にしたことがある。そのとき、北野中学校で佐伯の先輩Click!である林重義の証言は詳しく引用したけれど、今度は伊藤廉の現場証言を聞いてみよう。
 1928年(昭和3)1月、渡仏中の林重義と伊藤廉はいつも連れ立ってすごしていた。林は制作上の悩みとともにホームシックにかかっていたようで、伊藤によれば「神経衰弱」状態だったらしい。パリで郷愁にかられ孤独感にさいなまれたのか、林は伊藤のアトリエへ入りびたりになっていた。近所の主婦からは、男同士で住むなんてとんでもない・・・とウワサになったらしく、それを聞きつけたモデル嬢からも叱られている。また、伊藤廉も海外生活の疎外感からイラ立っていたらしく、パリ市民がダンスをしたりカフェでのんびりお茶を飲んでいるのを見るたびに、「なまくらもの」ばかりだと腹を立てていた。伊藤もまた、友人たちからは「神経衰弱」だといわれる始末だった。
 伊藤廉がパリに馴れはじめたころ、追いかけて林重義が小林和作や林倭衛(しずえ)を連れて日本から到着している。小林和作や林倭衛は、すぐに新しい生活環境に適応したらしく、小林は避寒のためイタリア旅行へ出かけ、林倭衛もモンパルナスにアトリエを借りて落ち着いたのだが、林重義は仕事も思うようにはかどらず「神経衰弱」のスランプに陥ってしまった。伊藤廉も、曇り空ばかりつづくパリの冬にはよほど辟易し、精神的に「たまらなくかなしく」なってしまったようだ。当時のパリには多くの日本人が滞在しており、ふたりの周囲には佐分眞(さぶりまこと)、宮田重雄、細谷省吾、福島繁太郎、久米正雄などがいて、親しく交流をしていたと思われるのだが・・・。
 林重義と暗い画室ですごしたそのときの心理を、のちに伊藤廉は次のように書き記している。1933年(昭和8)4月に発行された「独立美術」第7号の、「林重義特集」号に収録された伊藤廉「林重義のことを語る-巴里の憶ひ出とそれから-」から、少し長いが引用してみよう。
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 林は河岸を写生しだした。太陽がうすく照つてゐた。どこもこゝも美しいとおもつた。私は十号で河を距てゝ建物を描き出した。林はどんどん仕事をはこんでゐる。彼は印象派のやつらがあんまりうまいことかいたので、あの表現方法以外にどんな手法を用ひていゝか困ると云ひながら、どこかしらピサロにも似てゐるし、シスレてせもあるやうな明るい色彩でやつてゐた。そしてともかくも一つのタブローとして完成させてゐた。私は林がどんな技法ででも、作品をまとめ上げることに「あれではいけない」と否定しながら、そのうまさ(経験が生むもの)を嫉妬した。自分の作品はこの十号がどんなにしてもまとめ上げられないのを、自分の個性的な表現手法を探し求めてゐるゆへと理由づけながら、---それはたしかに私自らの弁護である。なぜなれば林はともかくこのまとめ上げられた作品をことごとくしまひにはこわしてしまつて、一つも残さなかつたのだから、彼もまた彼が作り上げた作品そのものの存在理由を否定してゐたのだ。
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 制作した作品群を、「完成」と同時に破棄してしまう林重義は、新しいモチーフ探しと気分転換をかねてか、ビリエ・モンバルバン(モラン)へ行きたがったようだ。このとき、なぜ林が近くのモランへ行きたがったのか、伊藤は「新しいモーティフ」を探すためとしか文章に記していないけれど、表現に行き詰まり苦しんでいた林は、近くへ仕事に来ている佐伯祐三の仕事ぶりを見たくなったのではないかと思われるのだ。モランに佐伯たちが滞在していることは、林も伊藤も友人たちからの情報でよく知っていた。そのときの様子を、引きつづき伊藤廉の上記エッセイから引用してみよう。
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 私は十号にまだこだわつてゐた。林は新らしいモーティフをさがしに隣り村へゆくことを望んだ。この隣り村のビリエ・モンバルバンには佐伯祐三たちがゐた。彼等はサボをはき、絵具でよごれた着物をきて---ズボンで絵具をふいたりするので---そして手はもとより頭髪や顔にさへ絵具のとばしりをくつつけて、ゴオグのやうに、鉛管から画布上に絵具を出して、そして指頭や掌でなすりつける。パレットの上は泥土さへまぢつてゐても、そんなことには無関心で、毎日数枚の画布を塗りつぶしてゐた。こゝのオテル・グラン・モランの主人が、彼等はきちがひのやうにかいてゐると私に云つた。事実、佐伯たちはこゝにゐた間に、百枚ばかりの作品を完成してパリへかへつていつた。
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 ちなみに「ゴオグ」は当時の呼称で、現在のヴァン・ゴッホのことだ。おそらく、林も伊藤も佐伯の猛烈な仕事ぶりに圧倒されただろう。なにかに取り憑かれたように仕事をする佐伯は、このあとわずか6ヶ月ほどしか生きられなかった。
 
 林重義は、自身の特集号である「中央美術」第7号に「僕の場合」という文章を寄せているが、なぜだか美術界に、さらには世の中にすごく腹を立てている様子がうかがえる。文体から推察すると、かなり神経質そうな性格で、感情を隠せずすぐに表へぶちまけてしまうタイプだったように思える。伊藤廉は、そうした林の怒りや哀しみを、パリで正面からぶつけられていた役どころだったものか。同誌から林重義の姿勢を知るうえでは重要な箇所なので、かなり長いが引用してみよう。
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 事一小画学の事に至つても、例へばピカソが何と云ふたとか、レジェーが、プレハーノフが、何と云つたとかと、何か金科玉条でゞもあるかのやうに云ふ向きもあるが、(中略)さう一概にふれまわつてそれに当らぬ奴はアカンと云ふ手は認識不足な点、ヒステー女(ママ)のやきもちわめきとその価値は一般である。/一体誰々がどう云ふた誰々が何と云ふたと引例ばかりもつて来なくては物が云へぬやうな国粋会の小僧つ子乾分の様な腹のない男は、オリヂナルな自分の腹わたを出して見せねばならぬ芸術の仕事には適さないのだから、思想紹介業として学校の先生にでもなつた方が身のため国の為めであらう。(中略) 例へば顔立はマイナスであるが他にプラスが多量にあれば僕はその女を尊重すると云つたたぐひである。/僕は美術のいろいろなイズムもいろいろな画家画風もその効用性の+、-によつてそれぞれ適当に僕の滋養として居る。女中の尻の上におどる友禅模様の色彩効果と云へども無視しては居ない。只僕は写実主義であるから、何々イズムの旗ふりになつて熱中することはしないのである。何々イズムをことさらに飛び出すのはすべて反動思想である。或不足を補ふべく生れる新しき思想なのである。併し思想運動の常として、例外なく、必要以上にその一方に誇張されたものである。そのエピゴーネンに至つてはその起源の理由を忘れて病に入る。したがつて又その逆があるべきである。例へば救世軍の起源には理由と効用性とがあつた。併し太鼓をならす事と僭越な理想主義教本をどなる事に終始するエピゴーネンは、眼くらんで人間性を忘れる。彼はすでに此世の人でなくて癲狂院向の人物となる。も少しおだやかな部類はきざみ込まれて同じ所を何遍もまわる蓄音器と一般である。
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 芸術分野とはまったく関連のない、「プレハーノフ」の名前が突然出てきているところをみると、林はマルキシズム的な性向を持った同時期の画家仲間から、こっぴどい批判をあびせられたことがあったのではないだろうか? なぜか「救世軍」に置き換えてはいるけれど、ここには「マルクス主義」ないしは「プロレタリア芸術運動」、「共産党」とでも入れたかったのではないか。ピカソの追随者・模倣者と同様、その「エピゴーネン」たちは「癲狂院」へ行くべきであり、「蓄音器」と同等だとする言質からは、深く根ざした林の憤怒や悔しさがうかがい知れる。
 ちなみに、プレハーノフの『歴史における個人の役割』は、今日的な視点からいえば社会科学や人文科学の「社会と個」や「組織と個」をテーマとする学術分野の、ごく基礎的なテキストとしてバリバリの現役だし、分野はまったく異なるけれど、ほぼ同じテーマを作品で取り上げた同時代のトルストイの著作ともども、今日でもまだそれほど色褪せてはいないのだが・・・。
 
 
 西ヶ原に伊藤廉のアトリエが現存していることを、コメントを寄せてくださったlot49sndさんClick!よりご教示いただいた。西ヶ原1081番地(現・西ヶ原4丁目)の400坪の土地に建つ大きなアトリエ(付き西洋館)は、もともと伊藤の中学時代からの友人だった佐分眞の自宅兼アトリエだったものだが、佐分が1936年(昭和11)に38歳で縊死したため、のちに伊藤廉が譲り受けたものだろう。(詳細はlot49sndさんの「佐分眞のアトリエ」Click!記事参照)
 さっそく拝見しに出かけたのだが、その豪華さにビックリしてしまった。佐分眞の家は裕福Click!だったので、これだけの贅をつくした邸+アトリエが建てられたのだろう。下落合でこれに匹敵する大きくて豪華なアトリエは、吉武東里Click!が設計した島津一郎Click!アトリエ以外に思い当たらない。

◆写真上:1921年(大正10)に建てられた、佐分眞・伊藤廉アトリエの北側採光窓。
◆写真中上:ともに伊藤廉の作品で、左は『白いブラウス』(1929年)と右は『静物』(制作年不詳)。
◆写真中下:1933年(昭和8)4月発行の「独立美術」第7号(林重義特集号)に掲載された、左は林重義『ピエロとアルルカン』で右は伊藤廉『男』。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)の「長崎事情明細図」に掲載された長崎町大和田2027番地の伊藤廉アトリエ。椎名町駅の南側で、下落合からも目白通りをはさんで近い。上右は、1927年(昭和2)の「瀧野川事情明細図」に掲載された佐分眞アトリエ(のち伊藤廉アトリエ)。下は、西ヶ原1081番地(現・西ヶ原4丁目)に現存する伊藤廉アトリエ(旧・佐分眞アトリエ)。