サイトへのアクセス数が、少し前に400万人を超えた。毎日の仕事に追われ、このところ取材時間や資料の下調べの時間が不足していて、不満足な記事しか書けておらず、とてももどかしくて恥ずかしいのだけれど、目白・落合地域を中心にたくさんの方々から支えていただき、また読んでいただけるのはとても嬉しい。いつもお読みいただき、ありがとうございます。<(_ _)>

 あと少し突っこんで調べたくても、時間がなくて不明のまま、あるいは曖昧なまま記事にしてしまうことも少なくない。その曖昧な部分がのちに判明し、追加で書いた記事もたくさん存在している。そのようなケースでは、以前の記事に註釈を挿入して、できるだけ最新の記事へとリンクを張るようにしているのだが、これだけ記事数が増えてくると、見逃している箇所もたくさんあるのではないかと思う。気づいた時点で註釈を入れてはいるけれど、もし読まれていてお気づきの点、あるいはリンク漏れなどがあれば、どうかご教示いただければと思う。
 それにしても、目白・落合地域あるいはその周辺域にお住まいの方のみならず、これほど多くの方々がこの地域へ興味を持たれているとは、正直、思いもしなかったことだ。いつだったか、ある特定の地域や街を切り取り、キメ細かに調べていく(ドリルダウンしていく)プレパラートの話Click!を書いたことがあった。日本全国、どこの地域や街でも同じような“地層”が存在すると思うのだが、東京のほんのごく一部であり、どちらかといえば地味な新乃手Click!の目白・落合地域は、旧石器時代から現代にいたるまで、江戸東京の地誌や歴史、民俗、地勢、暮らし、自然などを博物学的にとらえ、そこに生きた人々の物語を紡ぎだすには最適なフィールドのひとつであり、象徴的な“素材”だったようにも思えてくる。
 もちろん、それは結果論的な感想にすぎないのだけれど、どこの地域でも街でも同じようなフィールドワークを行えば、おそらく結果的には「象徴的な素材」だった・・・と思える物語が、多数埋没しているように思われるのだ。このようなプレパラートの設定は、別に東京の新宿地方だろうが大阪の西成地方だろうが、はたまた山形の古屋敷村だろうが島根の荒神谷だろうが、まったく同様にちがいない。目白・落合地域の多彩な時代(街の性格からして近代史の物語が多い)について、さまざまな角度から記事を書いてきたけれど、それはある時代状況を「教科書」的に語るよりも、その時代に生きた人々について、より具体的かつ実体的に語ることだった。
 わたしは、どちらかといえば図書館や資料室に置かれた文献・資料類の記録よりも、その地域や街に残る“現場”のナマの記憶や伝承を、できるだけ優先している。「公式な歴史」として、あとからまとめられた記録には、意図的にそれをまとめ上げた主体の都合や粉飾、化粧、付会、あとづけの理屈、結果論、ひどい場合には事実の歪曲やウソが含まれていることが多々あるからだ。
 
 戦前の「教科書」を例に出すまでもなく、現在でさえ「日本史」や「地方史」、「地域史」、「公文書」、あるいは「社史」といった記録には、そのようなご都合主義的な側面が垣間見えている。でも、実際にその“現場”で生きていた人々の“眼”や“耳”や記憶を、あとからの都合で改変したり、「なかったこと」にして誤魔化すことはできない。このような“現場”の記憶や伝承が、明らかな思いちがいや勘ちがいと思われる場合でない限りは、文献や資料類に先んじ“現場”での記憶や伝承などを優先して記事を書いてきたつもりだ。
 文献や資料類へ極端に依存しつづけ、現場でのウラ取りをしないままテーマを解釈し表現すると、誤りを再生産Click!しつづけるばかりでなく、既定の事実をその誤りに合わせて逆に改変してしまう危ういケースClick!についても見てきた。また、満足な調査もなされないまま、講談本などをもとにしたのか安易に「定説」化されようとしている、地元の「歴史」もご紹介Click!した。このケースなどは、そもそも初歩的な資料当たりや、地付きの人間への取材さえしてないのではないか?
 さて、ビジターの総数400万人にちなみ、ちょっとこじつけめいてはいるけれど、日本列島の人口が400万人だったと推定される時代、すなわちナラ時代の落合地域について少し想いをめぐらしてみよう。江戸東京のナラ時代というと、この地方に散在する出雲系の古社Click!は、すでに聖域(既存の古墳上が多い)として成立してから久しかったと思われる。仏教面からいえば、ナラ時代の初期には浅草寺が、つづいて深大寺などが次々と建立された時期に当たる。
 落合地域のあちこちで、あるいは周辺域である戸塚(十塚)や高田、戸山、柏木、上高田などのエリアでは、ナラ時代の遺跡や遺構が数多く発見されている。落合地域のみに限れば、もっともなじみ深いのが下落合横穴古墳群Click!(下落合4丁目)の存在だろうか? 薬王院の西側に位置する同古墳群は、宅地造成の最中にたまたま発見されたものだが、ナラ時代以前の古墳時代の遺構も含め、同じような古墳が目白崖線の斜面ないしは川沿いの高所にあったことは、江戸期から明治にかけての農地開墾や戦後の住宅建設あるいは改築にともない、副葬品と思われる遺物が多数出土している、地元の伝承や記憶(もちろん現存する物証)からも明らかだと思われる。
 
 このほかにも、ナラ時代の落合地域には随所に集落が形成されていたと思われ、現在の中井1丁目~2丁目・4丁目にまたがる、広大な遺跡の総称「落合遺跡」Click!をはじめ、中井No.3遺跡(中井2丁目)、妙正寺川No.1遺跡(西落合2丁目)、上落合二丁目遺跡(上落合1丁目~2丁目)など、ナラ期の遺跡は多地点かつ広範囲にわたっている。これらの遺跡や遺構が“点”ではなく、現在の丁目をまたがる“面”であるところに注目したい。集落が点々と散在するのではなく、ある程度まとまって広い地域から遺構が発見されているということは、もはや「村」レベルではなく、もう少し大きな「町」と表現したほうが適切なようにも思えてくる。現在の神田川や妙正寺川の両岸には、ナラ期の町がかなりの密度で広範囲にわたって存在していたのかもしれない。
 それは、下落合横穴古墳群を営み、豊かな副葬品とともに死者を埋葬する経済力やマンパワーを備えた「町」だった可能性がある。おそらく、古墳期には考古学的に南武蔵勢力Click!と名づけられた、巨大な古墳を南関東の各地に築造した人々の末裔なのだろう。換言すれば、400万人という
日本列島の人口密度がかなり低い時代に、広い範囲にわたって集落を形成できていた地域状況(落合地域に限らず江戸東京の各地)・・・という点にも、併せて留意したい。
 よく「武蔵野の原野」というワードを、歴史書などで目にする。でも、発掘された事実や成果をもとに、縄文時代から近代あたりまでの様子を眺めてみると、実情はどうだったのか? 戦前からつづく、神話世界の「未開の原野・武蔵野」というイメージが、相変わらずそのままアタマの中に刷りこまれていやしないだろうか?・・・と疑い、疑問や問題意識を持つことは非常に重要なことだと思う。近世の歌にさえ詠まれつづける、どこか「自虐」的で寂しげな「武蔵野の原野」は、あくまでも武蔵野を「未開の原野」のままにしておきたい勢力、武蔵野の大小さまざまな古墳の存在Click!をなかったことにしたい勢力、縄文時代を野蛮で暗愚な「原始人」の時代にしておきたい自国の歴史へ泥を塗りつづける勢力の、ご都合主義的な史観によって築き上げられてきたイメージにすぎないだろう。
 
 戦後、このような感情的に「そうあってほしい史観」は次々と崩壊しつづけ、そのイメージ史観や印象史観は、今後とも事実や科学的な成果の前に、さらに崩壊と後退をつづけていくにちがいない。その格好の事例が、学習院の史料館Click!に眠っているのだけれど、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:木洩れ日が美しい、御留山(おとめ山公園)の雑木林。
◆写真中上:左は、スレート葺きではなくこちらのほうが馴染み深い、なつかしい茅葺きの中井御霊社(下落合御霊社)。右は、目白学園キャンパスに復元された縄文時代の住居だが、最新の発掘成果を踏まえるならばこの復元レプリカも見直される必要があるかもしれない。
◆写真中下:左は、中井御霊社の境内から発見された多彩な時代層の土器類。右は、妙正寺川No.1遺跡のある1955年(昭和30)ごろに撮影された西落合2丁目界隈。
◆写真下:左は、いまにも氾濫しそうな1974年(昭和49)の上落合を流れる妙正寺川。平川(現・神田川)とともに、古代から氾濫を繰り返してきたと思われ、周辺に営まれた集落もずいぶん被害にあっただろう。右は宅地造成中の斜面だが、このような場所から次々と遺跡や遺物が見つかる。