きょうは戦後すぐのころ、1950年(昭和25)に描かれたとされている、板橋区立美術館収蔵の片山公一『上落合風景』を取り上げてみたい。この画像は、ご親切にある方からお送りいただいたものだが、モノクロ画像なので色彩や細部の様子がつかみきれない。「上落合」とタイトルされているので、描かれているコンクリート護岸の川は間違いなく妙正寺川Click!だと思われるのだが、片山がスケッチしている位置は下落合側だと思われる。
 川筋は、右手へ向かって少しずつカーブし、片山は妙正寺川のいずれかのコンクリート護岸淵で、あるいは川に架かる橋のたもとでスケッチブックを広げており、川面に反射する美しい雲か空を描きたかったのかもしれない。あるいは、「雲」と見えているのは妙正寺川の渇水時に川底に表れる、1945年(昭和20)の空襲時に高良一家Click!が避難したような、砂州の連なりだろうか? 川の流れは、右手奥から手前へ流れているように描かれており、したがって片山は下落合側から上落合側の家並みを眺めて描いていることになる。
 対岸の家々を見ると、とても特徴的な光景がとらえられている。家々の屋根上から、白い“煙”が立ちのぼっているのだ。もちろん、これは“煙”ではなく大量の水蒸気だと思われる。江戸小紋や江戸友禅など、染め物業Click!の本拠地である上落合に立ちのぼるのは、染めを定着させる「蒸し」の工程で発生する水蒸気だ。遠景には高台が見えるが、上落合側にも下落合と同様に河岸段丘が形成され、早稲田通りが通う尾根上へ向けて北向き斜面がつづいている。もっとも、下落合側の目白崖線とは異なり、それほど負荷を感じずに上り下りできるおだやかな緩斜面だ。遠景の建物はその斜面上か、なだらかな丘上に建てられたものを描いているのだろう。
 

 妙正寺川の上流を向いて、このような家々が並び川筋がカーブしている地点は、案外多くはない。また、1950年(昭和25)といえば敗戦からわずか5年後の時期であり、米軍の二度にわたる空襲で徹底的に破壊された焼け跡が、いまだ空き地として上落合のあちこちに残っているころだ。もっとも、この作品の制作年がほんとうに1950年(昭和25)なのか?・・・という疑問も残る。1951年(昭和26)現在の空中写真を眺めてみても、上落合でこのような家々が密集した地点、あるいはビル状の建物が建てられている場所はほとんど存在しないからだ。制作年代はもう少しあと、1960年代に限りなく近い時期ではないだろうか?
 本作品は、長く福山市の市民館が収蔵していたものだが、その当時から1950年(昭和25)制作と規定されていたようだ。しかし、1992年(平成4)に板橋区立美術館が所蔵するようになってから、制作年が「1950年頃」と幅をもたせた表現で記載されるようになっている。つまり、画布に「1950年」と記した作者自身の筆が残っているわけではなく、福山市の「1950年」規定はあくまでも推測だった可能性があるのだ。わたしは、描かれた上落合風景の様子から、ひょっとすると1955年(昭和30)に近い時期の情景ではないかと推測しているのだが・・・。
 この作品を1950年代半ば、つまり昭和30年前後の制作とすると、いろいろとつじつまの合った説明がつきそうだ。妙正寺川の対岸に見えているのは、大正橋を下流へ少し歩き、西武線の妙正寺川に架かる鉄橋を背にして上落合側を眺めた風景、すなわち現在の「染の里・二葉苑」Click!(新宿ミニ博物館)あたりの情景だ。片山公一が立っているのは、下落合3丁目1853番地(現・中落合1丁目)あたりの川岸であり、描かれている家々は上落合1丁目330番地界隈ということになる。片山の視点が高いのは、このあたりの妙正寺川が急流であり、対岸のコンクリート護岸が手前に向けて大きく傾いでいるからだ・・・と解釈できる。左側に見えている空き地が、現在の二葉苑のビルが建っているあたりに相当するだろうか。
 
 画面中央のやや右手に見えている大きめな西洋館は、現在の上落合公園になっている高台であり、その左手遠くに見えているビル状の建物は、1950年(昭和25)の創立25周年記念を契機に、1955年(昭和30)ぐらいまでプールや新校舎を続々と建設していた、落合第二小学校の姿のように見える。ちなみに、この小学校が戦後「落合第二小学校」になったため、もともと中井駅前にあった落合第二小学校は「第五小学校」に名称を変更している。第五小学校は、校史では第二小学校から分岐したことになっているけれど、学校敷地を別にして新たに建設されているのは現・第二小学校のほうなので、いつも資料類などで紛らわしく感じる点だ。
 さて、問題はビル状の建物の手前に見えている、煙突のような細長い突起だ。このような場所に、煙突状の構造物があったのをわたしは知らない。染め物の干場Click!にしては高すぎる(?)し、高圧鉄塔にしては質感がおかしい。また、左側の1本は煙突にしては形がいびつだし、棕櫚にしては背が高すぎる。こんな場所に銭湯があった記録もないし、まったく不明なのだ。1955年(昭和30)前後、妙正寺川の流域には空襲で破壊された中小の工場群が、ようやく復活しはじめている。当時の写真を見ると、銭湯以外に大小さまざまな煙突が立ち並んでいた様子がうかがえる。でも、この位置に煙突があった話を、わたしはかつて聞いたことがない。やはり、長い反物を丸ごと干す、現在ではどこにも存在しない10mほどの物干し場なのかもしれないのだが。
 片山公一はこの時期、独立美術展へ盛んに絵を出品しており、独立美術協会の画家たちClick!が戦前から数多く住んでいた上落合は、なじみの深い街だったと思われる。ただ、『上落合風景』は見たままの風景をそのまま写しているのではなく、片山の“構成”やイメージが画面へ多々入りこんでいるとすれば、描画ポイントの特定はまったく無意味であり不可能になってしまうのだが・・・。
 

 「おみぁあ、こまいこと気ぃしちゃるが、いらん世話なんじゃ。空の左側が、木立ちの緑だけじゃ構図的にあずってぇ(てこずって)、たちまち(とりあえず)以前スケッチしとった聖母病院のフィンデル本館と、煙突を2本ほど描き加えちょるん」(福山弁)・・・なんてえことが、なければいいのだけれど。(爆!) 見憶えがあるような情景だが、わたしの記憶にいまいちしっくりこない風景なのだ。

◆写真上:1950年(昭和25)ごろの制作とされているが、わたしにはもう少し時代が下った上落合の街並みのように思える片山公一『上落合風景』。
◆写真中上:上は、現在も妙正寺川沿いに残る1950年代の建物で、明らかに染め物工房と思われる家々も残っている。下は、1955年(昭和30)に中井駅の橋梁通路から西を向いて撮影された風景。右手が下落合の目白崖線で左手が上落合だが、「染物・洗張」の看板を掲げる家の左側には妙正寺川と栄橋が見えている。また、橋の上部左寄りには「三の輪湯」の煙突がとらえられている。遠景にも煙突が連なっているが、川沿いの工場や研究所のものだ。
◆写真中下:左は、『上落合風景』が描かれる2年前の1948年(昭和23)に撮られた空中写真。中井駅の東側界隈で、いまだ焼け跡の空き地が目立ち家々の数が少ない。右は、1963年(昭和38)の同所をとらえた空中写真で、想定できる描画ポイントを記載したもの。
◆写真下:上左は、想定する描画ポイントの現状だが、建物が高くなり斜面がまったく見えなくなっている。上右は、寺斉橋と大正橋の中間から下流を眺めたところ。下は、カワセミやセキレイをよく見かける妙正寺川の流れ。そのうち、遡上したアユClick!の魚影も見られるようになるかも。