国際聖母病院Click!の建設計画は、あるひとりの女性の死によって始動している。フランスへ滞在していた医学博士・戸塚文郷(のち聖母病院の初代院長)が、フランシスコ会の会員だったローズという女性の死に際し、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」Click!の医療事業に役立ててほしいという、遺言と遺産を託されたのだ。
 戸塚博士は当時、カトリックの司祭になるために渡仏していた。彼は帰国後、目白坂を上ったところにある関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)の東京大司教・アレキシス・シャンボンに相談し、東京へ病院を建ててほしいと要請している。もちろん、女性の遺産だけではとても建設費をまかなえなかったので、日比谷で音楽会を開いて資金集めをしたり、東京で寄付を募ったりしていたのだが、しばらくしてフランシスコ修道会からの本格的な援助が受けられるようになり、事業計画は少しずつ具体化していった。パリに置かれていた外国宣教師会の支持も得られ、教会側からの全面援助の約束がなされたのは、1927年(昭和2)になってからのことだ。
 さっそく、フランシスコ修道会から日本管区長だったマリー・ジャン・クリゾストムという女性が派遣され、東京で病院を建設するための土地探しをはじめている。おそらく、当時は関東大震災Click!の記憶がいまだ生々しかったのだろう、彼女は東京市街地(<城>下町Click!)ではなく、郊外の河岸段丘として形成された地盤である、下落合の青柳ヶ原Click!へ白羽の矢を立てた。土地の購入契約が成立したのは、1928年(昭和3)6月のことだ。病院の敷地は用意できたものの、建設資金が足りないのは相変わらずで、引きつづきさまざまな募金活動を行なっている。さらに、建設費に加え病院の調度・備品などまで手がまわらず、ベッドや布団、シーツなどは同修道会のシスターたちが手作りしている。そして、1930年(昭和5)にようやく病院建設の定礎式を迎えた。
 この年、青柳ヶ原に病院建設がはじまると、下落合には「伝染病隔離病棟」建設のウワサが流れ、激しい反対運動が起きている。運動は、西武鉄道を巻きこんだ大がかりなものだったらしく、修道会側は何度も説明会を開くことになった。西武鉄道が反対したのは、東京郊外の観光散策コースや遊興地の開発Click!、あるいは各駅前に拡がる近郊住宅街の造成Click!を行なっていたからで、西武電車沿線のイメージダウンを怖れたためだろう。ほどなく、計画されている病院が規模の大きな総合病院であることが明らかとなり、逆に地元では全面協力の姿勢に転換している。
 
 病院の建設がスタートし、備品も少しずつ整ってはきたが、高額な医療機器を導入するまでの資金を集めることはできなかった。そのとき、困っていた修道会へ協力を申し出たのがフランス政府だった。フランス政府は、聖母病院へ導入が予定されている医療機器に見合う金額を同修道会へ寄付し、X線診断装置や各種の消毒機器類を調達できるようにしている。
 これらの機器は、1931年(昭和6)の秋に日本へ向けて船便で送られた。国際聖母病院が開業するのは、同年の12月21日だけれど、フランス政府から贈られたこれらの機器が、開業にはギリギリ間に合うかどうかのきわどいタイミングだった。
 フランスから送られてくる医療機器類について、国際聖母病院に関する荷物一式は税関で課税せず、そのままスムーズに通関させるように要請した、外務省の永井松三次官から大蔵省の河田烈次官にあてた文書、1931年(昭和6)12月4日付けの「仏国政府ヨリ在東京聖母病院ニ寄贈シタル医療機械ノ無税通関ニ関スル件」が、国立公文書館に保存されている。
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 十一月十六日付拙信人普通第七七〇号ニ関シ 在京仏国大使伯爵ド・マルテル氏ヨリ「フランシスコ」派伝導会ノ経営ニ依ル聖母病院ノ組織及目的ニ付キ大要左記ノ通リ追報シ来リ、今時ニ該病院ノ輸入セントスル医療機械二十一箱中ニハ別紙貨物送状写ノ通リ放射線写真機械一式ノ外 消毒機械一式ヲ之含ミ居ル処、消毒機械一式ノ関税通関方ニ付テハ前回依頼洩レナル趣ヲ以テ 前記両機械ノ無税通関方ニ付重ネテ依頼有シタルニ付テハ右御詮議ノ上結果何分之儀御回示○煩度○段御依頼中進之 尚輸入医療機械ハ放射線写真機械及消毒機械ノニ機械ナリ、而シテ貨物送状ノ各品名ハ其ノニ機械ヲ構成スル部分品ニシテ添付邦文簡訳ハ右両機械ノ主要部分品ナリ、二十一箱中十七箱ニハ放射線写真機械ヲ納メ、他ノ四箱ニハ消毒機械ヲ納メタルモノナリ、右為念申添リ、 (句読点ママ)
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 この書類には、荷札から写された21箱の中身リストや、国際聖母病院の設立に関する3ページにおよぶレジュメが添付されている。この12月4日要請書は、11月17日に送達した同書類につづくものだが、これだけ外務省がスムーズにことが運ぶよう「為念申添」える配慮をみせているのに、大蔵省の反応は鈍かったようだ。これらの医療機器類は11月末、ないしは12月の初頭に横浜港へ荷揚げされ、横浜税関にはすでにとどいているはずなのだが、12月11日の段階でようやく大蔵省から外務省あてに回答があり、「無税通関」の手続きが行なわれようとしている。
 
 
 大蔵省の事務処理が遅いのは、ひょっとするとこの時期の政変(若槻礼次郎内閣の総辞職→犬養毅内閣の誕生)によって、大蔵省内に人事をめぐるゴタつきでもあったのだろうか? 翌年早々に、同省の河田烈次官のクビが黒田英雄次官へとすげかえられている。
 その間、外務省ではフランス大使館のマルテル伯爵から、「荷はとっくのとうに横浜へ届いてるてえのにさ、おたくら、どうなってんの?」(マルテル伯が東京弁を話したかどうかは不明)とせっつかれていたのだろう、聖母病院が開業間近なことも踏まえ、永井次官から大蔵省の河田次官あてに再度の要請を行なったのが、上記12月4日の書類だと思われる。12月11日になって、大蔵省はようやく回答書「蔵税二七五三号」を外務省へ送付している。
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 客月十六日付人普通第七七〇号及本月四日付人普通第八一三号ヲ以テ 仏国政府ヨリ在東京聖母病院ニ寄贈シタル医療機械ノ無税通関ニ関シ御依頼越ノ趣了承 右ハ別紙写ノ通 横浜税関長宛及通牒置候条 御了知相成度右及回答候也
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 回答書の書面では、わずか4行足らずのカンタンな事務手続きを行なうために、外務省が最初に要請した1936年(昭和6)11月17日(起稿16日)から、大蔵省が正式に「無税通関」を了承する12月11日まで1ヶ月近くもかかっている。おそらく、荷が横浜へ着く11月下旬あたりから、外務省ではフランス大使よりさんざん催促を受けていたのだろう、12月11日に大蔵省の正式回答を入手するや、変わったばかりの犬養毅外相(首相兼任/12月13日~)名で、フランス大使マルテル伯爵あてに通知書をこしらえ、さっそく12月16日に送付している。
 フランス政府から寄贈された医療機器が横浜税関をそのまま通過し、ようやく下落合の国際聖母病院へと搬入されたのは、12月21日の開業日ギリギリだったのではないかと思われる。あるいは、今日伝わっている1931年(昭和6)12月21日という創立記念日は、実はフィンデル本館が竣工したあと当初に設定された開業予定スケジュールではなく、フランス政府から寄贈されたX線診断装置や消毒機器が横浜税関で「無税通関」するのをジリジリしながら待ち、ようやく下落合にとどいて病院内へ設置された「機器導入記念日」なのかもしれない。
 
 その後、外務省から大蔵省へ事務処理のスピード向上を申し入れたものか、国際聖母病院に関してフランスから寄贈される医療機器や医療用品、支援物資などは、外務省から大蔵省へ「無税通関」の要請書を送ってから、わずか1日で決裁され回答書が寄せられるようになっている。

◆写真上:敗戦から間もない、1950年(昭和25)ごろに撮影された国際聖母病院。
◆写真中上:現在の聖母病院(左)と目白坂上の関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂/右)。
◆写真中下:左は、1931年(昭和6)11月17日に大蔵省の永井次官から大蔵省の河田次官あてに送られた要請書。右は、同年12月4日に外務省から念押しで大蔵省に重ねて送られた要請書。下は、フランスから横浜港に到着した21箱の荷に付けられた荷札の写し。
◆写真下:左は、1931年(昭和6)12月11日に河田大蔵次官から永井外務次官あてに送られた回答書。右は、犬養首相兼外相からフランス大使あてに送られた「無税通関」決定の通知書。