1911年(明治44)の秋、のちにフランス留学で知り合った洋画家たちとの交流から1930年協会Click!の半会員のようになっていたらしい、当時はいまだ22歳の日本画家・野長瀬晩花Click!(本名・弘男)は、和歌山県近野村に残る貴重な古社の樹林保護をめぐって、同じ県内の南紀勝浦に住んでいたある人物に手紙を書いている。その人物とは、日本はもとより世界的にも高名な植物学者であり粘菌学者、生物学者、民俗学者・・・etc.と、日本が輩出した博物学者としては、その成果とともにおそらく比類のない南方熊楠(みなかたくまぐす)だ。
 当時、明治政府は1906年(明治39)に発布した「神社合祀令」のもと、全国各地に存在する日本古来からの地主神や地域に根付く元神に対する、いわゆる“神殺し”政策を強引に進めていた。「日本史」の中では、ナラのヤマト朝廷とともに成立する比較的新しい「伊勢神道」から外れた、あるいは関連のない自然神信仰を含めた神々の古社を廃社、あるいは抹殺するための政策で、全国で20万社を数えた社(やしろ)が、近畿圏を中心に大正期までに3分の1の7万社に激減するという、猛烈な信条弾圧を行なっている。同令が、「日本の神殺し」といわれるゆえんだ。
 これにより、ヤマト朝廷や皇国史観Click!に都合の悪い神々、8世紀に成立する「神話」に合致しない神々、あるいは「正史」の記述と矛盾する伝承を受け継ぐ日本古来の神々が大量に抹殺され、のちに「国家神道」(戦後の用語)と呼ばれる政教合体の怪しげな単一宗教観+史観(はては単一民族国家観)への道を拓くことになる。もっとも被害がひどかったのは近畿圏で、三重県では明治期まで存在した6,489社のうち、廃社により無理やり合祀あるいは抹殺された古社は5,547社で、大正期までにはわずか7分の1の942社しか残らなかった。
 また、隣りの和歌山では3,713社あった古社が、790社と5分の1に激減している。これらの古社にこそ、多様な日本史を紐解くさまざまな伝承が存在していたと思われるのだが、明治政府は単一宗教観および皇国史観には「あってはならない記憶」だと考えたのだろう。「神社合祀令」は、その「公式」な理由とは裏腹に、きわめて政治的かつ信条(思想)統制的な側面をもった、明らかに意図的な原日本の古代史改造と、日本古来の神殺し政策にほかならない。このとき、浪速で敗退しナラ(もちろん当初はこのような地名ではない)へ熊野から侵入しようとする「神武」を迎え撃った、和歌山=紀ノ国の女王ナグサトベClick!の地元古伝も、あらかた抹消されたものと思われる。
 このほか、愛媛県では5,376社が2,027社へと半数以下になり、長野県では6,831社あった県内古社が、大正期には3,508社と半減している。関東地方では、もっとも被害が大きかったのが埼玉県で、同様に7,377社から3,508社へと半減している。しかし、近畿圏などを除いては徐々に地域の抵抗が激しくなり、明治政府による日本の“神殺し”は途中で頓挫してしまうのだが、野長瀬弘男(晩花)と南方熊楠が手紙をやり取りしていたころ、和歌山県では“神殺し”の真っ最中で、熊楠の産土神だった入野村大山社を廃社にしようともくろむ県や郡当局と、熊楠は鋭く対立していた。
 
 ちなみに、地主神や地域の信仰神に手をつけ廃社にし、その土地の文化的なアイデンティティを根絶やしにしようともくろむ(「標準語」Click!の押しつけ政策と近似している)、明治政府の“神殺し”と対峙し、強力な反対運動を繰り広げた地方もある。わたしの街、江戸東京もそのひとつだ。もともと原日本色が強い江戸東京(関東全域もだが)では、神田明神の主柱を不用意に入れ替えたClick!ことに端を発し、後世にわたり根強い抵抗を生むことになった。ヤマト朝廷成立以前からと思われる古社も数多い、関東地方ならではの風土や文化、史観などにもとづく地域色なのだろう。のち、地域の自治や国の存立さえ危うくしかねない、鬱積していた江戸東京市民の反感を明治政府は逆に「撫育」Click!し、なだめるClick!のが得策と考えたものか、東京各地で場違いな神々の合祀は行われたものの、廃社の数は近畿圏に比べればかなり少ない。
 熊楠や野長瀬のいる和歌山では、「神社合祀令」が政府や自治体、さらには地元の林業業者や開発業者などとの癒着を生み、廃社が増えれば増えるほど役人から業者までカネが懐へ転がりこむという利権構造ができあがっていた。古社の広い境内には、数多くの古木や巨木など良質な樹林が形成されていたため、それらを伐採して売りとばすことで巨万の利を得ることができたからだ。もっとも、この利権自体も明治政府が“神殺し”をよりスムーズに実施するため、意図的に作りあげた地域の仕組みなのかもしれない。隣りの三重県でも、まったく事情は同じだった。したがって、境内が広く由緒ある大きな古社が、次々と廃社の対象に選ばれ犠牲となっていった。当然、県内各地では反対運動が起きた。野長瀬晩花(弘男)が住む近野村でも反対運動が起き、無理やり地主神をつぶして樹木を伐採し丸はだかにしてしまう腐敗の構図に、22歳の野長瀬は猛烈に反発したものだろう。熊楠へは、樹林保存に関する相談の手紙を送っている。
 野長瀬に対する熊楠の返事は、老木を残して雑木を伐ろうとしている村の姿勢を批判し、老木の成育を支えているのが周囲に生えた雑木であると説いている。また、図版を描いて樹木の特性を解説し、伐採しないよう強く訴えている。熊楠は、「神社合祀令」にからむ自然保護と利権構造の腐敗を、中村啓次郎(立憲政友会)を通じて衆議院で訴え、また東京の民俗学者・柳田國男を通じて“神殺し”である「神社合祀令」の不条理をアピールしつづけた。熊楠の「檄文」を、1987年(昭和62)に出版された神坂次郎『縛られた巨人-南方熊楠の生涯-』(新潮社)から引用してみよう。
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 ちなみに広く郡民に告ぐるは、前日県庁より派出の田村という役人の言に、本郡神社の合祀は今冬末までに完結せよとのことなりし。只今は紅葉いまだ全く色付かざれば、冬いまだ始まらず、まだまだ十二月末までは時日もあることにて、神社合祀の無法励行は、たぶんそれまでに廃止または改正さるべければ、郡村の役人いかに勧誘脅迫するとも、当郡の人民諸君極力合祀をずらしまくり、必ず取り忙(急)いで合祀を挙行し後日臍を噛むの悔を遺すことなかれ。
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 のち、熊楠の産土神だった入野村大山社は強引に廃社となり、熊楠の反対運動は全面的に敗北するのだが、貴重な南方系の植生で知られた神島(現・田辺市)の保存には成功している。

 熊楠は、おそらく日本の学者の中でも最大級の業績を残した人物なのだが、その奇人変人ぶりでも有名で、さまざまなエピソードには事欠かない。1911年(明治44)に発行された『新公論』1月号には、「当世奇骨漢大番附」という読み物が掲載された。その東の前頭筆頭に、南方熊楠の名前が見えている。また、同じ東の前頭には、わたしの義母の大伯父である宮武外骨Click!(紙面の「宮竹」は誤り)の名前も見える。このふたり、熊楠と外骨は民俗学の分野で深いつながりをもっており、外骨が発行する雑誌へ熊楠は頻繁に執筆している。熊楠の民俗学に注目したのは、宮武外骨ばかりでなく三田村鳶魚Click!、柳田國男、高木敏雄、折口信夫Click!などがいる。
 熊楠と柳田國男との間に溝が生まれ齟齬が生じたのは、熊楠が宮武外骨の発行する雑誌へ書きつづけたからだといわれている。アカデミズムの柳田は、「いかがわしく恥ずべき」メディアへ書くな・・・と「忠告」しつづけたようだが、熊楠はまったく意に介さなかった。柳田としては、大日本帝国や天皇さえオチョクるような外骨の雑誌類へ執筆している熊楠と交流しつづければ、やがて自身の立場も危うくすると考えたのだろう。同じ学者でも、まったくスケールや度量が異なるふたりのやり取りは、とても興味深い。柳田國男は、のちに帝大法学部へ宮武外骨が勤務し、明治新聞雑誌文庫Click!を創設することになるなど、夢想だにしえなかったにちがいない。
 南方熊楠は、神島が特別天然記念物に指定されたのち、1941年(昭和16)に75歳で死去している。死の床で、南方熊楠のデスマスクをとったのは、下落合で中村彝Click!のデスマスクをとった彫刻家・保田龍門Click!だった。保田は、のちに熊楠の胸像も制作している。なお、「当世奇骨漢大番附」には、中村彝が肖像を描いた帝大の田中館愛橘Click!や、目白の学習院長・乃木希典Click!などの名前が見え、下落合に在住していた人物の名前もいくつか見えるが、それはまた、別の物語・・・。
 
 
 まったくの余談だけれど、野長瀬晩花の子息である野長瀬三摩地(さまち)に、わたしは子どものころずいぶん「お世話」になった。もちろん、監督(助監督)・脚本家として活躍した「ゴジラ」シリーズや「ウルトラ」シリーズを楽しみにしていたからだ。野長瀬三摩地の父親が、画家の野長瀬晩花であるのを知ったのは近年なのだが、すでに野長瀬三摩地も1996年(平成8)に他界している。

◆写真上:植物学や粘菌学のフィールドワークには欠かせない、南方熊楠の画道具。
◆写真中上:左は、米国から渡欧直前にキューバへ立ち寄った際の南方熊楠。右は、熊楠の猛烈な反対運動にもかかわらず廃社となった、ピラミッド状の山神を奉る廃社前後の入野村大山社。
◆写真中下:『新公論』掲載の「当世奇骨漢大番附」を転載した、熊楠の保存による新聞のスクラップで、熊楠自身が書きこんだ「明治四四年二月二十日」の文字が見える。
◆写真下:上左は、民俗学分野で熊楠の著作を自身の雑誌に掲載しつづけた宮武外骨。上右は、デスマスクをとった下落合でもお馴染みの保田龍門。下左は、いかにも頑固一徹そうな晩年の南方熊楠。下右は、1941年(昭和16)12月29日に保田によってとられた南方熊楠のデスマスク。