目白駅近くの「田舎道」を歩いていた小出楢重Click!が、貧血で倒れて動けなくなった話はあちこちに出てくる。目白駅から歩いて、自宅へ帰ろうとしていた途中で意識がもうろうとし、そのままうずくまって“行路病者”となってしまったのだ。
 1919年(大正8)に『Nの家族』を出品した二科展で、樗牛賞を受賞したばかりのころだった。小出は当時、下落合540番地にあった大久保作次郎アトリエClick!のごく近くに、「百姓家」を借りて住んでいる。そのときの様子を、1927年(昭和2)に出版された『楢重雑筆』(中央美術社)に書かれ、のちに岩波書店の『小出楢重随筆集』(1987年)に収録された「胃腑漫談」から引用してみよう。
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 私はこの脳貧血のために今までに二度行路病者となって行き倒れたことがある。一度は東京の目白のある田舎道で夜の八時過ぎだった、急にフラフラとやって来て暗い草叢の中へ倒れた、その時は或る気前のいい車屋さんに助けられたものだった、その時の話は以前広津氏が何かへ書いたことがあるからそれは省略するとして、今一つは奈良公園での出来事だった。
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 小出楢重が住んでいたのは、目白通りをはさんで北側へ三角形状に飛び出した下落合の一画か、または隣接する雑司ヶ谷旭出(現・目白)あるいは長崎村へ入ったあたりだったと思われる。文展・帝展の大久保作次郎と二科の小出楢重とは、若いころから家同士で行き来する友人ではあったけれど、のちの小出の文章から推察するとそれほど親しかったとも思えないが、彼は自分の家へ帰る目印として、大久保作次郎のアトリエを意識している。
 1919年(大正8)の落合地域といえば、いまだあちこちに田畑や森が広がり、目白駅近くや目白通り沿いを除いては、住宅がまだまだ少なかったころだろう。南側の目白崖線の丘上や斜面には、華族の屋敷や別荘が建ち並んではいたが、関東大震災Click!後にみられるようなハイカラな郊外住宅街の姿は、いまだ形成されていなかった。
 では、小出が「広津氏」と書いている、広津和郎の証言を聞いてみよう。小出が死去したあと、かなりたった戦後の広津のエッセイでは、目白での出来事が「大久保」と誤記されている。おそらく、下落合の大久保作次郎Click!のアトリエ近くという小出の話から、エピソードが起きた場所を「大久保」と勘違いして書くようになったのだろう。1948年(昭和23)に書かれ、のちに『広津和郎全集』(中央公論社)に収められた「奈良と小出楢重」から、少し長いが引用してみよう。
 
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 少し余談に渡ったが、話を前に戻すことにして、或日、彼はその大久保(引用註:目白)附近の町を歩いている中に、例の胃の発作におそわれて、道端の草の上に倒れていた。/そこに人力車が通りかかった。そこでその人力車に向って、手真似をしながら、「あのう、あのう」と呼びかけると、車夫は、/「わたしは今お客さんに呼ばれて行くところですから、あなたを乗せるわけには行きませんが、今誰か代りのものを寄越しますから待って下さい」といって行ってしまった。/暫くすると、その車夫の約束した通り、他の車夫が人力車を引いてやって来た。/小出君は大久保作次郎氏の家まで乗せて行ってもらいたいといった。/そして大久保作次郎氏の家の裏口まで来たので、「ここでよろしい」といって車を停めてもらい、「何ぼや?」と訊くと、/「いえ、お代なんか要りませんや。お金を頂こうと思って乗ってもらったんじゃありませんや」と車夫は威勢よくいって、車を引いてどんどん帰って行こうとする。行路病者だと思ったらしいのである。前の車夫が「行路病者が道端にころがっているからお前行ってやれ」とでもいったのかも知れない。/小出君は吃驚して、蟇口(がまぐち)を開けながら、例のどんもりで言葉が出ず、「あのう、あのう・・・・・・」と呟いている中に、車夫はさっさと行ってしまった。/これはどんもりのために彼は車賃を儲けたのである。
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 「目白のある田舎道」が、「大久保附近の町」の道へと変わってしまっている。当時は、目白駅界隈よりも大久保(東大久保・西大久保・百人町)のほうが、まだ相対的に賑やかだったのだろうから、広津は「町」という不自然にはならない表現に、あえてしているのかもしれない。
 小出楢重は、しゃべることが苦手だったらしく、なかなか言葉が出てこないことを自身で「どんもり」と称していた。「あのう、あのう・・・」といったきり、次の言葉がなかなか出てこないのは、どこか同じ大阪出身で「あのな~、あのな~」を連発していた佐伯祐三Click!を思わせる。小出が下落合界隈に住んでいたころ、中村彝Click!のアトリエClick!は下落合464番地に建っていたが、佐伯祐三はいまだアトリエを建てていない。彝アトリエと曾宮一念アトリエClick!の、ちょうど中間に位置する二瓶等アトリエClick!は、すでに建っていたものか。ひょっとすると小出は、佐伯が下落合に借家Click!住まいをするころまで、大久保アトリエの近くに東京での拠点となる「百姓家」を借りていたかもしれない。
 

 小出の「あのう、あのう・・・」が災いして、せっかく描いた「下落合風景」と思われる風景画を、記者を装った詐欺師に盗られてしまった事件も発生している。再び、広津の文章から引用してみよう。
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 樗牛賞がついたという事で小出君の名は一遍に人に知られたが、その当時は文展や二科に初入選したというだけで、今よりは新聞などで騒がれ、それが賞がついたとなると、大々的に書き立てられたものであった。そこで小出君のその百姓家の一室には各社の記者諸君が競争で出かけたらしいが、或時、或新聞社の記者の名刺を持った一人物が人力車で駈けつけ、小出君に向って、「何か近作がありませんか。ありましたら一つ拝見したいもので」といった。小出君はその附近を描いた八号の風景画を一枚取出して見せると、「おお、これで結構でございます。どうもありがとうございます」とその人物はその絵を押戴いて一礼し、そのまま縁側から下りて、待たしてあった人力車に乗ってその絵を持って行ってしまいそうにする。小出君は驚いて何かいおうとしたが、例のどんもりのために咄嗟に言葉が出ない。それで「あのう・・・・・・あのう・・・・・・」と呟いている中に、人力車はどんどん走り出し、とうとう小出君は絵を一枚持ち逃げされてしまった。
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 小出は、大阪人にしてはめずらしく、東京美術学校時代には同郷人たちとつき合っていない。むしろ、東京にいるときは「殊に大阪人を非常に厭がったものであった」と書いている。「大阪弁が急に耳に押し寄せてくるのが何よりもむっとする」とも書いているから、自身は長堀橋筋出身の生粋な大阪っ子にもかかわらず、なかなか言葉が出てこない「どんもり」な性格とあいまって、複雑な心境だったものか。無口な大阪人には、異郷で出会う同郷人がわずらわしかったのかもしれない。
 
 新聞記者を名のる詐欺師に持ち去られた、小出楢重の風景画8号はその後、どこをどうさまよっているのだろうか? 彼が大正中期に描いた東京作品で、どこか田舎っぽい風情の風景画が見つかるとすれば、それは「下落合風景」あるいは「目白風景」である可能性が高い。

◆写真上:貧血で倒れ車屋に助けられた小出楢重が、俥をつけた大久保作次郎アトリエ(下落合540番地)あたりの現状。ごく近くに、小出楢重の住んでいた「百姓家」があった。
◆写真中上:左は、1919年(大正8)に二科で樗牛賞を受賞した小出楢重『Nの家族』。右は、翌1920年(大正9)に二科賞を受賞した小出楢重『少女梅の像』。
◆写真中下:上左は、1921年(大正10)に作成された早稲田1/10,000地形図にみる大久保作次郎邸とその周辺。上右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同所。下は、大久保作次郎アトリエや小出楢重宅近くの長崎村に住んでいた牧野虎雄が、1922年(大正11)に自身のアトリエで描いたと思われる『早春』。おそらく、小出宅の周辺も似たような風情だったろう。
◆写真下:左は、1928年(大正3)制作の小出楢重『帽子を冠れる自画像』。右は、広津和郎。