かなり前の記事で、鳥居龍蔵が関東大震災Click!の焼け跡を眺め、東京市街地の随所に築造された多数の古墳を観察・調査してまわったエピソードをご紹介Click!した。それら古墳の多くは、オフィス街や住宅街、道路などの建設によって破壊され、もはや現存していない。山手線の駅名になった大塚(大塚稲荷古墳)も、昭和初期に宅地開発で破壊されてしまった。もともと寺社の基盤として利用されていた古墳は、大震災後に再びそれら境内の下に隠れてしまった。
 東京には、旧字(きゅうあざ)として大塚Click!や丸山(円山)Click!、稲荷山、摺鉢山Click!など、いわゆる古墳地名が数多く存在しているが、江戸時代の市街地造成や農地開拓で崩されたり、大名屋敷の庭園に築山として活用されてきたが、明治以降に破壊された古墳は膨大な数にのぼるとみられている。たとえば、芝増上寺の境内には巨大な芝丸山古墳Click!のほか、13~14基の古墳が存在していたが大正期以降に破壊されつづけ、いまや芝丸山古墳のみしか残存していない。
 江戸(エト゜=岬、鼻)の先端に当たる現・大手町(旧・柴崎村)に築造された、のちに「将門首塚」Click!と呼ばれるようになる古墳も、大震災以降にオフィス街建設のためすべてが破壊されて現存していない。鳥居龍蔵が、1923年(大正12)の大震災直後に撮影した写真から、非常に小型でかわいい前方後円墳だったことがうかがわれるのだが、鳥居がほぼ同時期に撮影した、同古墳の写真をもう1枚発見したのでご紹介したい。(冒頭写真①)
 前回ご紹介した、大震災から間もないころの写真と比べると、後円部の墳丘上に震災で倒壊した石碑が再建されているので、時期的にはもう少しあとのようだ。古墳の規模としては20~30mほど(周濠を除く)の、関東地方では非常に小型の前方後円墳Click!だったと想定できる。もちろん、平将門Click!が出現するはるか以前からこの地(柴崎村)に存在していたもので、築年は5世紀ぐらいまでさかのぼるのかもしれない。「将門首塚古墳」では、時代が500年ほど前後しておかしな呼称となるので、ここでは仮りに「柴崎古墳」と表現して記述を進めたい。
 現・大手町のこの場所へ、なんらかの聖域を記念する社(やしろ)、のちに「神田明神」Click!と呼ばれるようになる社殿が建設されたのは、古墳期末かナラ時代の初期のころだろうか。730年(天平2)には、すでに社が存在していて江戸地方の信仰を集めていた様子が記録されている。もともと江戸(エト゜=岬)の先端に位置する柴崎村に祭祀された神田明神だが、将門が出現したあとの後世に、そのエピソードに由来する「首塚」の伝説とが習合したものだろう。将門自身も、この社を訪れている記録(社伝)があるので、生前からなんらかの関係があったのかもしれない。
 

 徳川家(世良田家)と、神田明神とのつながりも非常に古い。足利氏(のち室町幕府の主体)とともに、いまだ北関東(旧・上毛野地域)で世良田氏を名乗っていた鎌倉末期、世良田親氏(ちかうじ)は幕府執権の北条氏に謀反を起こして敗れ、信州へ落ちのびて剃髪し僧侶になっている。僧名を「徳阿弥」と称して、のちに各地を巡礼することになるのだが、柴崎村の神田明神に立ち寄った際、還俗(げんぞく)して武家にもどれという神託を受けている。その神託には、徳阿弥の1字をとって世良田とともに「徳川」姓を名乗れという託宣までが付随していた。
 そして、信州から三河の松平郷へと移り、在原保重に見いだされて・・・というのが、徳川(世良田)親氏をめぐる徳川家誕生の伝承だ。のちに、関東へともどり江戸へ幕府を開いた徳川家は、鎌倉期以前からつづく北関東ゆかりの世良田姓を復活させて、ふたつの姓を名乗るようになる。神田明神を江戸総鎮守社として奉ったのは、もともと徳川姓の発祥地だからだ。
 神田明神は一時期、柴崎村から神田山の山頂近くへと移されていたようだが、徳川幕府が本格的な江戸市街地の整備・造成工事をスタートさせると、湯島台の現在地へと再び社殿が移されている。神田山の膨大な土砂を、湿地帯や茅島の埋め立てに使いたい幕府としては、徳川家ゆかりの神田明神の遷座はもっとも重要な課題のひとつだったろう。また、柴崎古墳そのものは移築できないので、土井利勝に周辺域を屋敷地として与えて、古墳の保存・管理を命じている。こうして、千代田城大手門前の大名小路(旧・柴崎村)に残った柴崎古墳(俗に将門首塚)は、麹町区大手町となった大正後期までその姿を残すことになった。
 

 明治期に入ると、柴崎古墳のある敷地には大蔵省と内務省の庁舎が設置されるが、柴崎古墳自体はそのまま手をつけられていない。旧・酒井雅楽頭の上屋敷にあった庭園とともに、ほぼ元の状態のまま残されていたようだが、関東大震災で両省が焼失すると、柴崎古墳の墳丘は崩され、同時に池も埋め立てられてしまった。1869年(明治2)に大蔵省が設置された直後の様子を、1907年(明治40)に出版された織田完之の『平将門故蹟考』(碑文協会)から引用してみよう。
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 大蔵省玄関の前に古蓮池あり、由来是を神田明神の御手洗池なりと云ふ。池の南少し西に当りて将門の古塚あり、高さ凡そ二十尺週廻り十五間許、其の塚の傍ら古蓮池に沿って樅樹の巨大なる枯幹あり、古への神木なりと云ふ。東より西に向って苔石数段を登れば老桜樹あり、枝を交へて右に聳へ、また老桜樹の大なるもの古塚の背を擁して立ち、其の他柯(えだ)樹の老大なるものあり、森々鬱々として日光を遮ぎり、白昼も尚晦く陰凄として鬼気人に迫るを覚ゆ・・・
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 著者には塚=円墳の先入観があるので、後円部の墳丘を計測しているのだが高さは約6mとちょっと、円周が約27.3mほどだから直径が9m弱ほどで、前方部を含めると20~30mほどの小さな前方後円墳を想定することができる。周濠を想定しても、全体で30~40m規模となるだろう。江戸湾が広く見渡せたであろう、岬の先端に埋葬された被葬者はいったい誰だろうか?
 さて、鳥居龍蔵が撮影した2枚の写真から、あるいは先に引用した『平将門故蹟考』掲載の図版などから、柴崎古墳のおおよその位置と向きがわかる。この古墳の前方部は、おおよそ東を向いている。つまり、明治期に設置された大蔵省と内務省の境界に沿って、ほぼ東西に築造されていた前方後円墳だ。したがって、後円部は千代田城側を向いていることになり、冒頭写真①に写る背後の木々は、大手堀をはさんだ城内の樹林だ。写真では手前が前方部で、うしろに石碑とともに人が立っている墳丘が後円部ということになる。鳥居龍蔵は、大手町通りの側からシャッターを切っており、のちに大蔵省敷地と内務省敷地の境界に道路ができ、その道端となってしまう「将門首塚」の灯籠が手前左手に見えている。
 一方、以前にご紹介した同古墳を横方向から撮影した写真(②)は、大蔵省の焼け跡から南側(内務省の焼け跡方面)を向いて撮影されているのがわかる。そして既述のように、墳丘上には倒壊した石碑が再建されていないので、こちらの写真のほうが冒頭の写真よりも前である可能性が高い。いずれの写真にも、焼け跡を整理するための設備や工事人夫の姿が見られるので、後円部上に立つ人物の服装なども考慮に入れれば、撮影は1923年(大正12)の暮れも近い時期ではないだろうか。
 
 柴崎古墳に限らず、鳥居龍蔵は旧・大名屋敷の庭園や、寺社の境内にされてしまったあまたの古墳を訪ね歩き写真に収めている。それらを見ると、江戸の旧市街地は古墳の密集地帯だったことがよくわかるのだが、いまではそのほとんどが破壊されて痕跡すらとどめてはいない。

◆写真上:鳥居龍蔵が大手町通りから西を向いて撮影した、震災から間もない「柴崎古墳」。
◆写真中上:上は、「将門首塚」の現状。下は、江戸期以前の太田氏時代の柴崎村とその周辺。
◆写真中下:上は、写真①の部分アップで石碑が再建された後円部墳丘(左)と、前方部の手前(南東側)に見えている灯籠(右)。下は、写真①より少し前に撮影されたと思われる「柴崎古墳」。
◆写真下:左は、各写真の撮影ポイント。右は、震災直後に撮られた旧・大蔵省の焼け跡。