少し前に、関東大震災Click!の被災地を次々と写生してまわった、河野通勢Click!と佐伯祐三について記事Click!にしている。河野は下町各地をスケッチして、のちにエッチング作品として発表しているが、佐伯祐三は親友の山田新一Click!によれば、自警団Click!に「不審な姿を朝鮮人と間違われ」て袋叩きにされそうになり、スケッチブックを没収されているようだ。
 同じころ、洋画家の有島生馬Click!と竹久夢二Click!も連れだって、あるいは単独で被災地をスケッチしてまわっていた。彼らは自警団に袋叩きになることも、画帳を取り上げられることもなく、有島は震災復興記念館Click!に収蔵されている300号の大作に代表される油彩画を残している。また、竹久夢二は「都新聞」をはじめ、「改造」「文章倶楽部」「婦人世界」「週刊朝日」などへ、それらのスケッチに文章を添えて発表している。片や自警団に脅されスケッチブックを奪われたらしい画家もいれば、片や夢二のように画帳とカメラを携帯し、写生や撮影をつづけた画家たちもいた。
 わたしはこの差異を、写生に出た時期のちがいにあるのではないかと想定していた。佐伯祐三Click!は、旅先の渋温泉からもどった1923年(大正)9月10日以降に東京市街へ写生しに出ていると思われるが、いまだ「流言蜚語」がうず巻く大震災のすぐあとのことであり、焼け跡の街では大混乱の真っ最中だったのではないかと推測した。だから、佐伯は千田是也Click!と同様に殺気立った被災者から暴行を受けそうになったのではないかと・・・。しかし、有島生馬や竹久夢二、さらに河野通勢らが写生に出かけているのも、ほとんど同時期なのだ。
 もうひとつ、ネームバリューに大きなちがいがあったのではないかとも想定してみた。当時、現在からは想像もつかないほど、多くのマスコミを通じて画家たちの知名度は高く、各地で開かれる美術展は大入り満員Click!で、人があふれ返ることもまれではなかった。だから、同年9月5日から写生に出ている有島生馬や竹久夢二は、誰もが知っている画家であったろうし、河野通勢も岸田劉生Click!たち草土社がらみの画家として、それなりに知名度があっただろう。でも、佐伯祐三は東京美術学校を卒業したばかりで、まったく無名の画家だった。したがって、自警団からしつこく誰何(すいか)されたとき、聞いたことのない名前を名乗って、ことさら怪しまれたのではないかと考えてもみた。
 
 ところが、竹久夢二が都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」を読んでいて、「おや?」と思う文章に出あった。同年9月31日の都新聞に掲載された、「東京災難画信・十八/長い日曜日」の文章だ。それほど長文ではないので、全文を引用してみよう。
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 浅草や日比谷公園のバラツク街へ行くと、何の事はない田舎町のお祭りだ。紅白の幕赤い提灯、古着や世帯道具を売つてゐる所は、さながら京都東寺の御会式(例年四月二十一日)のやうだ。上方から見物に来たらしい女連が/「あの風はどうや」/「おおしんど、わてもう見物するのんいややし」などと言ひながら歩いてゐる。丸の内辺の会社員が、仕事がないので、有名な日比谷のしるこ屋の娘など珍しげに見て歩くのに誘はれて、やつと一枚施しの着物にありついた避難者までが、何かしら落付のない慌たゞしい心持で、ふらりふらりと歩いてゐる。学校のない子供達は、ぶつ通しの日曜日を喜んで、長いお祭りを楽んでゐる。地獄極楽のからくりや、曲馬団のマーチでも聞こえて来そうな賑やかさだ。/たつた一人、歩哨の兵士は来るかも知れない敵を、待つ事既に久しいのに疲れて、里の祭りにどぶろくを飲む。白日の夢を夢み心地に、まだ立ちつくしてゐる。
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 この中に、関西方面からやってきたと思われるふたり連れの女性が、大震災の被災地を見物してまわっている様子が記されている。夢二も、被災地で交わされていた関西弁のやり取り、特に「見物」という言葉が気になって記録していると思われるのだ。今回の東日本大震災でも、一時的に取り上げられて「問題」視されていたが、震災から間もないころ被災地がどうなっているのかを野次馬的に見物してまわった人々がいたようだ。夢二は、焼け跡の被災地で耳に飛びこんできた言葉に違和感をおぼえて、おそらく「東京災難画信」へ書きとめたのではないだろうか。

 メディアが未発達な当時、リアルタイムで被災地の様子を知ることなど不可能だった。全国の新聞には、数日遅れの情報や写真が掲載され、各種写真誌も週間遅れで被災現場の様子を掲載している。だから、東京の現状がいったいどうなっているのか、自身の目で確かめてみない限り正確な状況はわからなかっただろう。東京や横浜などに親戚や知人のいる人々は、こぞってその安否を心配していたにちがいない。同時に、東京がどうなってしまったのかをこの目で見てみたいという欲求を持った人々も、少なからず存在しただろう。だから、道路や鉄道Click!が復旧するかしないかのうちに、船を使ってでもドッと見物人たちが各地から東京へやってきたのだ。
 もうお気づきかと思うが、日常的に大阪弁をしゃべる佐伯祐三は、9月10日すぎからスケッチブックを片手に下落合から東京市街へと出かけていった。被災地のどこかで自警団に呼び止められ、東京では馴染みのない大阪弁で受け答えをしていたとすれば、山田新一がのちに証言する「不審な姿を朝鮮人と間違われ」た以上に、どこか関西方面からやってきた物見遊山の震災見物と勘違いされ、周辺にいた現場の被災者たちから猛烈な反感をかわなかったか?・・・ということだ。
 
 おそらく多くの東京市民たちは、全国各地からやってくる震災見物の人波を快く思ってはいなかっただろう。夢二が感じたであろう違和感よりも、さらに強烈な反感を抱いて、彼ら“観光客”たちを眺めていたにちがいない。「人の不幸」を見物しスケッチしてまわる、明らかに地元の人間ではない関西弁の無神経な男、佐伯祐三は画家ではなく、このような姿に見られやしなかっただろうか?

◆写真上:震災復興記念館に常設展示されている、300号の有島生馬『大震災記念』。画面の中央右手には、被災地の救援活動に東奔西走したベルギー大使の父娘が描かれている。
◆写真中上:左は、今年の9月1日に被服廠跡の慰霊堂で開かれた88回目の慰霊祭壇。右は、9月1日の大震災当日に湘南大磯で起きた東海道線の脱線転覆事故の様子。
◆写真中下:1923年(大正12)9月31日に、都新聞へ掲載された「長い日曜日」の記事全文。2011年8月に出版された『竹久夢二「東京災難画信」展集』(ギャラリーゆめじ)より。
◆写真下:左は、9月22日都新聞に掲載の「救済団」。夢二は反感を抱きながら、山手の婦人たちが「救済」の名目で見物に訪れる様子を描いている。右は、大正末の撮影と思われる竹久夢二。