少し前の記事で、小出楢重Click!が第6回二科展が開催される1919年(大正8)の夏に東京へやってきて、下落合540番地に住んでいた大久保作次郎Click!アトリエの付近に「百姓家」Click!を借りて住んでいたらしいことを書いた。そのコメント欄に、kakoさんから小出楢重の展覧会図録の年譜に、「(1919年)8月:上京する。友人の洋画家・鍋井克之の家で宇野浩二と対面。大久保の八幡宮釣堀の池畔に座敷を借りて《竹林》を制作」と書かれていることをご教示いただいた。そして、「百姓家」があったのは大久保ではないか?・・・とのご指摘をいただいた。この年譜表現にかなり興味をおぼえたので、ちょっと追いかけて調べてみたくなった。なぜなら、いまも昔も大久保町(東大久保・西大久保・百人町)に八幡宮など存在しないからだ。
 当初は、大久保町の北側に拡がる戸山ヶ原Click!に隣接した、高田八幡社(現・穴八幡宮Click!)のことを指しているのかと疑った。なぜなら、戸山に建設された陸軍の射撃場Click!や練兵場などの施設群は、当時の新聞でさえ「大久保射撃場」や「大久保練兵場」、「大久保のXXX」と表現することも決してめずらしくなかったからだ。したがって、戸山の北端に接した穴八幡宮のことを、「大久保の八幡宮」と表現しないとも限らない・・・と、つい考えたからだ。しかも、穴八幡宮の西側には池(放生池)があり、その周囲には下宿や貸間と思われる建物が数軒並んでいる。若山牧水Click!が学生時代に暮らしていたのも、この穴八幡境内の下宿のひとつだと思われる。当時、寺や社(やしろ)が副収入源として下宿や貸間を営むことは一般化しており、当サイトでもおなじみの中村彝Click!や林芙美子Click!も、寺社の下宿を借りては一時期暮らしている。
 わたしは、さっそく図書館へ出かけて小出楢重関連の資料をあさり、特に1919年(大正8)の夏に小出の周囲に登場する人物たちの記録をたぐってみた。すると、やはり「大久保の八幡宮」というのは、まったくの間違いであることがわかった。同年8月に、小出楢重が二科展へ出品するために大阪からやってきた当時の状況を、鍋井克之「小出楢重君の追憶」から引用してみよう。
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 第六回二科展の出品搬入が始る頃、小出君はそれ等の作品を抱えて、代々木初台の私のさゝやかな家を訪ねて来た。八幡宮の釣堀の池畔にあつた座敷を借りて、そこへ二三日滞在することになつた。私の家があまり手狭だつたにも依るが、奈良公園あたりでそんな類の亭式の座敷に入るのが好きでもあつたらしかつた。
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 明らかに大久保ではなく、八幡宮が代々木にあったことがわかる。いや、当時の地名で表現すれば、鍋井は豊多摩郡代々幡町代々木初台に住み、その近くの八幡宮のことを書いている。新宿をはさみ、大久保とはまったく正反対の代々木にあるのは、もちろん鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請された代々木八幡宮だ。これが、なぜ「大久保の八幡宮」になってしまうのか?
 ふつう東京で暮らしている方なら、「大久保の八幡宮」という言葉を聞いたら、「稲荷か天神のまちがいじゃない?」・・・と感じられるはずだ。「大阪の明神」「伏見の弁天」という言葉に、ゴリッとした違和感をおぼえるのと同じだ。大久保で想起される社は、百人町の皆中稲荷か、東大久保にある「大久保」地名Click!の発祥地と思われ、深い湧水源の谷間に建立された西向天神だろう。あるいは、将門由来の鎧社か貴王社(鬼王社)を思い浮かべる方もあるだろうか。
 鍋井の証言を裏づけるのは、東京へやってきた小出に鍋井の家で初めて紹介された、小説家・宇野浩二のエッセイだ。宇野が書いた、やたら句読点の多い「小出楢重」から引用してみよう。
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 大正八年の秋のはじめ頃、そのころ、まだ畑の中にあつた、代々木の初台に、住んでゐた、鍋井の家で、私は、はじめて、小出に、逢つた。そのとき、私が、鍋井に、小出を、紹介されて(後略)
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 鍋井自身の証言によれば、自分の下宿が手狭だったので小出をずっと泊めておくわけにもいかず、最寄りの代々木八幡宮近くにある池畔に出ていた賃貸の座敷を借りてあげたのだろう。小出はこの貸間で、付近の風景を描いた『竹林』を制作し、大阪から持ってきた『N氏の家族』と『静物』とを合わせ、都合3点を第6回二科展に応募している。その結果、作品は3点とも入選し、中でも『N氏の家族』はこの年の樗牛賞を受賞することになった。小出の『竹林』は、自身も少なからぬ影響を受けた岸田劉生Click!を意識したものか、「代々木風景」だったことがわかる。しかし、鍋井の家近くにあった代々木八幡宮の池畔の貸間にいたのは、かなり短期間ではなかったかと思われる。その後すぐに、同じく大阪からの友人である大久保作次郎邸近くの、「百姓家」が登場してくるからだ。
 
 
 さて、以上のような経緯を小出の友人であり、当時は大久保の東側にあたる牛込矢来町に住んでいた広津和郎は、先の記事にも引用したように一貫して「大久保」と記している。「八幡宮の池畔釣堀」も大久保なら、「大久保作次郎の家の近く」も大久保としている。そして、おそらく広津の証言をもっとも重視したと思われる美術評論家・匠秀夫も、すべてを「大久保」での出来事としている。1975年(昭和50)に出版された、匠秀夫『小出楢重』(日動出版)から引用してみよう。
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 楢重が借りた八幡宮の池畔の座敷というのは、大久保附近の大久保作次郎の家の近辺の百姓家の一間で、その頃の大久保は野や畑がそこここにある東京の郊外であり、百姓家なども残っていた。この新聞記者の持ち逃げのエピソードは広津も書き残している。
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 ・・・と、すべてが“団子”状にゴッチャになってしまっているのがわかる。ちなみに、大久保作次郎は大久保に住んだことはなく、1919年(大正8)現在は下落合540番地に自宅+アトリエを構えている。つまり、代々幡町の代々木八幡宮の池畔と、目白駅近くの大久保作次郎アトリエ(下落合540番地)付近の「百姓家」での出来事が、広津の証言を元にした匠秀夫の小出楢重伝では“雑煮”状態になってしまっているのだ。おそらく、権威ある匠秀夫の記述を尊重・踏襲した小出楢重の年譜には、現在でも鍋井克之の家近くにあるのは「大久保の八幡宮」であり、大久保作次郎邸の附近にあるのは「大久保の百姓家」になっているのではないだろうか?
 当時、広津は矢来町に住んでいたので、その西側に拡がる広大な大久保町のイメージ(今日の戸山から歌舞伎町までと捉えていただろう)が先走り、代々木八幡宮(代々幡町)も大久保作次郎邸(下落合)も、みんな「大久保」の範囲に見えてしまったものだろうか?(爆!) 地元牛込が出身地の広津にしては、「大久保の八幡宮」という不用意な表現がおかしいことに気づかなかったのだろうか? 匠秀夫は、広津の故郷が牛込だからこそ、彼の証言をもっとも尊重したと思われるのだ。
 
 でも、後世に検証できるはずの匠秀夫が、なぜ「大久保の八幡宮」や「大久保附近の大久保作次郎の家」という表現に、違和感をおぼえなかったのだろう? 大久保駅でも新大久保駅(旧・百人町停車場)でもいいから下車して、地元の方に「大久保の八幡宮はどこですか?」、あるいは「大久保作次郎のアトリエはどこでしょう?」と“ウラ取り”取材をすれば、「はっ? なんですって?」と怪訝な顔をされたはずだ。そうすれば、広津和郎の証言はどこかがおかしい、ひょっとするとまちがっているんじゃないのか?・・・とすぐにも気づいただろう。
 運がよければ、1975年(昭和50)の新大久保駅界隈で、「代々木八幡さんなら、山手線の内回りで隣りの新宿で降りて小田急の3つめ。大久保画伯のアトリエは、逆に外回りであと2つ乗って目白駅で下車するんじゃ」なんて、地元の気のきいた人に出会えたかもしれないのに・・・。w

◆写真上:1919年(大正8)に、小出楢重がすぐ近くの池畔に住んでいた代々木八幡宮。不思議なことに、誰もいないはずの拝殿前に小さな巫女さんが降臨したように見えるのだが・・・。w
◆写真中上:左は、小出楢重が鍋井克之を訪ねてやってくる10年前、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる代々幡村代々木初台。北側が代々木初台で南側が八幡宮界隈だが、明治期には宅地開発がまだほとんど進んでいない。右は、江戸後期に作成されたとみられる代々木村絵図で、小流れの湧水源にもいくつかの池があったことがわかる。
◆写真中下:上左は、大阪と東京を往来していたころ1920年(大正9)の小出楢重。上右は、崖線上にある代々木八幡宮の参道階段。下左は、1924年(大正13)に制作された小出楢重『帽子を被れる自画像』。下右は、1927年(昭和2)に描かれた小出楢重『裸女結髪』。
◆写真下:左は、1919年(大正8)の秋以降に小出が「百姓家」と目白駅とを往復したと思われる、下落合540番地の大久保作次郎邸前の通り。右は、代々木八幡宮近くに残る河骨川(こうほねがわ)跡の碑。高野辰之作詞の童謡「春の小川」発祥地であり、あちこちに灌漑池が存在していた。