ずいぶん以前から、二二六事件Click!の蹶起将校のひとりが、上落合に住んでいたという伝承を耳にしてきた。だが、いくら二二六事件Click!の資料を調べてみても、上落合に住所のある将校は見つからなかった。それもそのはずで、その人物は東京にはおらず結婚して新居をかまえたのも転勤先であり、上落合の自宅は「留守宅」になっていたからだ。
 転勤先は、愛知県にあった陸軍豊橋教導学校の歩兵学生隊付きで、二二六事件Click!の際には豊橋から東京へ出て、兵を連れずに蹶起へと参加している。1983年(昭和58)に出版された、『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)収録の文章にも、当該の記録が見えているので引用してみよう。
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 また決起部隊を指揮した某中尉が、落二小のソバに住んでいた。もっとも事件の頃は、その方は豊橋に勤務していたので、こちらは留守宅であった。二・二六事件もこの上落合にこんなかかわりがあった。 (同書「ゆき(二・二六事件)」より)
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 これによれば、その人物の階級は中尉であり、落合第二小学校の近くに家があったことになる。1936年(昭和11)2月26日の直前、陸軍豊橋教導学校から東京へとやってきた人物はふたりいて、しかも両者とも中尉だった。ひとりは、東京の四谷生まれの竹嶌継夫中尉(陸士40期)、もうひとりが青森県青森市生まれの対馬勝雄中尉(陸士41期)だ。対馬中尉の陸軍士官学校(陸士)時代の同期には、二二六事件で行動をともにすることになる栗原安秀と中橋基明の両中尉がいる。彼らは蹶起前、密接に連絡を取り合っていただろう。
 ふたりの経歴は、非常によく似ている。竹嶌中尉は、1928年(昭和3)に陸士を首席で卒業すると、少尉として福島県の若松歩兵第29連隊(原隊)へ任官している。そして、1931年(昭和6)に「満州事変」へ出征したあと中尉に昇進し、若松の連隊本部へ帰営。そして3年後、1934年(昭和9)8月に豊橋教導学校へ転勤となり、二二六事件へは豊橋から参加している。この間、1935年(昭和10)の秋にひとまわり歳下の女性と結婚しているが、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』の調査によれば、同年暮れにわずか3ヶ月で離婚している。
 一方、対馬中尉は1929年(昭和4)に陸士を卒業すると、故郷である青森県の弘前歩兵第31連隊Click!(原隊)へ少尉として任官している。1931年(昭和6)に「満州事変」が勃発すると出征し、中尉へ昇進して弘前に帰営。そして2年半後、1934年(昭和9)3月に豊橋教導学校へ転勤となり、同僚の竹嶌中尉と行動をともにすることとなった。この間、1934年(昭和9)12月に結婚し、1936年(昭和11)1月に夫人は実家のある静岡で男の子を出産。以後、産後の肥立ちが思わしくなく地元静岡の日赤病院へと入院しており、夫人は3月5日まで二二六事件が起きたことを知らなかった。
 
 経歴を見る限り、ふたりの中尉は豊橋教導学校へ異動のあと、ともに結婚(竹嶌中尉はすぐに離婚)しており、東京に家を借りて住む必然性がまったく感じられない。竹嶌中尉は東京の軍人会館(現・九段会館)で結婚後、先の澤地久枝の著書によればすぐに妻を豊橋へ連れ帰っているので、新婚家庭は豊橋市内だったと思われる。また、対馬中尉は静岡在住の女性と結婚しており、そのまま豊橋に新居をかまえている。つまり、両中尉とも東京の淀橋区上落合に「留守宅」を設ける必然性も、また時間的な余裕も存在していないのだ。
 では、なぜ上落合に蹶起将校の「留守宅」があった伝承が残っているのか? わたしは、福島県の若松第29連隊へ任官した竹嶌継夫中尉が、本来は東京市四谷の出身であることと、事件前年の秋に結婚してわずか3ヶ月で協議離婚した経緯に強く惹きつけられた。妻と離婚して独身にもどれば、竹嶌中尉が“所属”する家庭は豊橋の下宿ではなく「実家」、すなわち両親や弟たちが住む東京市内の自宅・・・ということになる。どこかへ転勤あるいは出向をしていれば、出身地の自宅が当人の「留守宅」ということになるだろう。すなわち、淀橋区上落合の落合第二小学校の近くには、竹嶌中尉の実家があったのではないか?
 わたしは、『昔ばなし』に書かれている「落二小」を、当然ながら二二六事件の経緯や文脈に沿って書かれた文章なので、1936年(昭和11)の事件当時の所在地、すなわち現在の中井駅南にある、落合第五小学校の位置へ読みかえて認識していた。でも、いくら旧・落合第二小学校(現・落合第五小学校)周辺の住宅街を片っぱしから調査・取材しても、ついに竹嶌家は発見できなかった。これが、そもそも調査にずいぶん時間がかかったゆえんだ。当時の落二小学校のまわりを、戦前の「火保図」から戦後の新しい地図まで、シラミつぶしに調査してもまったく見つからない。
 
 ところがある日、二二六事件は戦前の「昔ばなし」として紹介されているけれど、ひょっとして現在の落合第二小学校のことか?・・・と疑いを抱いた。もっと早くに気づいてもよかったのだが、同書には「当時の落二小は、現在の落五小の位置にあった」という記述が、何度も繰り返し登場していたから同じ文脈で解釈していたのだ。落二小学校は、戦前まで中井駅のすぐ南に建っていたが、戦後は野々村金吾邸の広大な屋敷があった跡地へ引っ越してきている。以前、島津源吉邸Click!や刑部人アトリエClick!の設計者・吉武東里Click!邸があった界隈として、記事でもご紹介済みだ。すぐに「火保図」で確認すると、野々村邸の南南東に隣接した旧・上落合1丁目512番地に、「竹島」邸が採取されている。まちがいなく、これが竹嶌継夫中尉の実家だろう。
 陸軍の豊橋教導学校は歩兵や騎兵、砲兵の下士官養成の教育機関であり、竹嶌中尉と対馬中尉はともに歩兵学生隊付きの士官だった。二二六事件の際には、歩兵学生隊120名を連れて静岡県興津に静養中の西園寺公望Click!を殺害する予定だったが、同僚や下士官候補生たちの反対が強く、襲撃計画を断念している。二二六事件の直前、ふたりは東京に着いて栗原安秀中尉の指揮する第1師団歩兵第1連隊と合流し、ともに首相・岡田啓介Click!のいる首相官邸を襲撃している。事件後、代々木の陸軍衛戍刑務所内で書いた、竹嶌中尉の獄中遺書から引用してみよう。
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 吾れ誤てり、噫、我(ママ)れ誤てり/自分の愚な為め是れが御忠義だと一途に思ひ込んで、家の事や母の事、弟達の事、気にかかりつつも涙を呑んで飛び込んでしまつた。/然るに其の結果は遂に此の通りの悲痛事に終つた。噫、何たる事か、今更ら悔いても及ばぬ事と諦める心の底から、押へても押へても湧き上る痛恨悲憤の涙、微衷せめても天に通ぜよ。(中略)/あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見(ママ)たのは愚かであつた。
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 「あてにもならぬ人」とは、彼らに同調して扇動するだけ扇動し、実際2月26日に将校たちが蹶起したあと、天皇の顔色をうかがいながら知らん顔を決めこんだ、陸軍上層部の将軍たちのことだ。
 
 皮肉なことに、首相官邸を襲撃した竹嶌中尉の自宅があった上落合1丁目512番地から、北北東へわずか600mしか離れていないところ、すなわち旧・下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸Click!に、彼らが殺害したはずの当の岡田首相が、かろうじて難を逃れ身を潜めていたことになる。

◆写真上:戦前の野々村邸に隣接する、旧・上落合1丁目512番にあった竹嶌邸跡の現状。
◆写真中上:同時期に豊橋教導学校歩兵学生隊付きだった、竹嶌継夫(左)と対馬勝雄(右)の両中尉。静岡の興津にいた西園寺公望の殺害を計画したが、校内の強い反対で断念している。
◆写真中下:左は、中橋基明中尉が指揮する近衛師団第3連隊の部隊に襲われた高橋是清邸。右は、殺害された高橋是清の2階寝室の長押(なげし)で刀傷または銃剣傷が残っている。
◆写真下:左は、事件と同じ年の1936年(昭和11)の空中写真にみる野々村邸(のち落二小学校)界隈。右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合1丁目512番地の竹島(嶌)邸。