昨年の暮れ、親しい知人を誘ってエゾシカ肉のステーキを中心に、エゾシカ料理の「記年会」を開いた。早稲田大学の文学部(旧・早稲田高等学院Click!)前、諏訪通り沿いの穴八幡Click!の並びに、アイヌ民族が経営する料理店「レラ・チセ(rera-ci-set=風の家)」がオープンしたのは1994年(平成6)のことだ。しばらくすると、同店は早稲田から中野駅と新井薬師前駅の中間あたりへと移転したのだが、2009年(平成21)に残念ながら閉店してしまい、わたしは行きそびれてエゾシカ肉の「ユク」(ステーキ)を食べそこなっていた。
 「忘年会」ならぬ「記年会」としたのは、もちろん1945年(昭和20)と同様に2011年(平成23)という年を、絶対に「忘年」してはならないからで、もはや二度と取り返しのつかない事態を招来し、通常の自然災害とはまったく異なり、国土の広範な地域が「白地図」化するという、文字どおり「亡国」的な状況に立ちいったったからだ。このような事態は、かつて「日本史」上においてもなかったことであり、関東大震災Click!以上に子々孫々の代まで忘れてはいけない記憶だからだ。
 さて、「記年会」を開いたのはdendenmushiさんClick!の地元・月島Click!の料理店だった。ここのご主人は北海道出身で、奥さんによれば店を開いてからそれほど年月がたっていないとのこと。店内はかなり混んでいて、あらかじめ予約を入れておかなければ食べられなかったかもしれない。増えすぎて稀少植物を食い荒らしてしてしまうエゾシカの、頭数調節で手に入れた肉を使って料理しているとのことだ。子どもが小さいころ、アレルギーの治療で除去食に取り入れていたニホンジカの肉も美味しいが、エゾシカも非常に美味な肉で、赤ワインとの相性が抜群の料理だった。北国のシカなので、もう少し脂がしつこい肉質だと想像していたのだが、牛や豚よりもかなり淡白であっさりした味わいには、やや腰のある少し渋めのワインがピッタリだ。ちなみに、頼んだワインはチリ製のカベルネ・ソーヴィニヨンのハーフボディだった。
 ところで、エゾシカというと、つい思い浮かべるのが幕末に松前藩の支配による「蝦夷地」をめぐり歩き、現場の様子をつぶさに記録して、幕府へ建議書とレポートを提出しつづけた松浦武四郎Click!だ。彼は、松前藩と大坂(阪)の商業資本とが結びついた、アイヌ民族に対する収奪と暴政を止めない限り、「蝦夷地」はシャモ(シサム=「隣人」から派生した和人への蔑称)に反感を抱きつづけ、あげくの果てには「赤蝦夷(ヲロシア)」へなびいてしまうだろうと警告しつづけた人物だ。幕府は、武四郎の報告を無視し、松前藩によるメチャクチャな「蝦夷地」収奪を許容しつづけた。もっとも、幕府は松前藩どころではなく、おそらく開国後の外交に忙殺されていて手がまわらなかったのだろう。
 
 わたしは学生時代の最終年に、松浦武四郎の書いたものをいちばん多く読んでいるだろうか。中でも1858年(安政5)の『近世蝦夷人物誌』は、おそらく江戸期に書かれた地誌本としては最高クラスの作品だと思われる。今日でいうと、そこに住む人々の生活に密着して紡ぎあげた、綿密かつ正確な地域ルポルタージュの傑作というところだろう。先年、「世界記憶遺産」に指定された山本作兵衛の『炭鉱記録画集』(上野英信が採取した物語とのコラボ指定にならなかったのが残念だが)に勝るとも劣らない、日本を代表する記録文画集だろう。たび重なる松前藩の刺客や妨害に悩まされながら、習得したアイヌ語を駆使して“現場”の状況を、図版やイラスト入りで克明かつつぶさに記録しつづけた武四郎の仕事は、現在でもまったく色褪せておらず、国の重要文化財にも指定された彼の著作類1,503点は、近代史研究の中でも第1級の資料として位置づけられている。彼は、「蝦夷地」改め現在の「北海道」(北加伊道)の実質的な名づけ親としても有名だ。
 明治以降、北海道の状況に精通している武四郎は、明治政府の「開拓判官」に任命され、アイヌ民族の生活保障と文化の保護に乗り出すのだが、今度は明治政府と手を組んだ商業資本によってさまざまな妨害や脅迫を受け、「開拓判官」でありながら東京から北海道への出張さえできない事態にまで追いこまれていく。買収され腐敗した開拓使に絶望した武四郎は、早々に政府へ辞表を提出し、ついでに「従五位」の位階も突っ返してしまった。以降、政府といっさい絶縁した武四郎は、当時の明治政府を皮肉り揶揄するように、松浦馬角斎(ばかくさい)の雅号を名乗るようになった。
 
 
 先日、1931年(昭和6)に編纂された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)の人物編を読んでいたら、目が点になってしまった。戸塚町諏訪66番地に、なんと松浦武四郎が住んでいたからだ。松浦武四郎は、1888年(明治21)に神田五軒町で死去したはずなのに、なんで1931年(昭和6)の戸塚町に在住しているのか、一瞬頭が真っ白になってしまった。以下、『戸塚町誌』から引用してみよう。
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 家屋税調査委員 松浦武四郎 諏訪六六
 松浦家は本町に於ける名流にして、其の家格も由緒深く、殊に祖父松浦武四郎氏最も顯(あわられ)る、同氏は維新回天の志士にて、後年明治大帝より従五位を贈らる、啓蒙時代北海道の探査に従事し同地方村名は、多く氏に因りて名付けられ、北海道人の雅名今に至るも謳はる、或は唐人お吉の下田脱出を助くる等、英雄的精神に富みし証左は、枚挙に遑あらず、氏は先考一雄氏の四男として明治二十五年四月、神田五軒町に生れ、大正八年現所に移住す、夙(つと)に本町自治の内面的功労者として知られてゐる人である、即ち生来の止むに止まれぬ犠牲的精神の発露が公共への尽力となつて現われてくるのであるが、世の毀誉には全く冷淡である、されば従来氏の尽力に因つて町会議員に当選したる人士も少なくない、従つて世人の信望も信頼も極めて根強いものがあると共に、高潔だと云はれる人格も非凡な才腕も皆此処に所以してゐる・・・(後略)
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 どうやら、松浦武四郎の孫にあたる人で、祖父の名前を襲名した2代目・松浦武四郎ということのようだ。戸塚町諏訪66番地は、明治通り(環5)が貫通する工事の際、ギリギリに残った街角のひとつだ。現在は、明治通りからわずかに20mほど東へ入った角地にあたる。
 
 松浦武四郎も、モシリ(大地)の各地で舌つづみを打ったと思われる、エゾシカ肉を堪能してから数日後、「レラ・チセ」の後継店ともいうべき「ハル・コロ」(haru-kor=満腹)が昨年の5月、百人町にオープンしたばかりなのを知った。灯台下暗しで、わざわざ地下鉄で月島まで出かけることはなかったのだけれど、東京各地でアイヌ料理がいつでも食べられる現状を知ったら、松浦武四郎(初代)はきっと大喜びしたにちがいない。地域の料理すなわち食材や味覚は、言語(方言Click!含む)とともに地域文化の基盤を形成し、次世代へと継承する重要な要素のひとつだからだ。ももんじ屋Click!の昔から江戸東京つづきであるわたしの舌に、アイヌ民族の食文化はとてもよく合う。

◆写真上:ハーフボディの赤ワインとの相性が抜群だった、エゾシカ肉のたたき。
◆写真中上:左は、晩年の松浦武四郎。右は、『近世蝦夷人物誌』(1858年)の武四郎による挿画。妻をシャモ(和人)に強奪され殺された夫(エカシベシ)が、絶望のあまり縊死する情景を描いたもの。松前藩や明治政府支配による暴政で、自殺したアイヌは膨大な数にのぼる。今日、「少数民族」などと“結果論”的にいわれるが、もともと「少数」ではなかった点にも留意したい。
◆写真中下:上左は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる戸塚町諏訪66番地。上右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所で戦災をまぬがれている。下は、諏訪66番地の現状。明治通り(環5)が貫通したために、周囲には通行するクルマが多い。
◆写真下:左は、エゾシカ肉のステーキ。右は、とてもあっさりしたエゾシカ脂身のカリカリソテー。