旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)には、大正期に「草津温泉」Click!という銭湯が存在していた。佐伯祐三Click!も『下落合風景』Click!シリーズの1作Click!に、「草津温泉」の煙突を入れて描いているが「XX湯」と呼ばれる一般の銭湯と、「XX温泉」と名づけられた銭湯とは、名称が異なるだけで内実は同じものだと思っていた。また、「XX温泉」とネーミングしたほうが、身体にはなんとなく効能がありそうで、集客効果も高かったのではないかと想像していた。でも、「XX温泉」と一般の銭湯とでは、少なくとも明治末から大正期にかけて大きなちがいがあった。
 わたしは風呂が好きだが、「江戸っ子」は熱い湯が好きだ・・・という通説(俗説)がある。でも、わたしは祖父母の代から親戚じゅうを眺めわたしても、熱湯のような風呂へ入るのが好きという人間を、ただのひとりも知らない。また、自身のことを「江戸っ子」と表現する人も知らない。「地元の人」あるいは「地付きの人」という表現はするが、少なくとも日本橋地域では「オレは江戸っ子だ」などというような人間は、いなかったように思われる。また、同じような感覚として、地元にあるお城を「江戸城」と呼ぶ地付きの人を知らない。(城)下町Click!では、昔から千代田城であって大雑把な「江戸城」という名称はもともと、この地域以外(外周域含む)からの呼称だろう。
 さて、気になって「江戸っ子」の起源を調べてみれば、江戸後期の安永年間(1770年代)ごろに登場した『柳多留』あたりが初出のようで、町場ではなく(城)下町の西端だった乃手(旧・乃手)の三田に住んでいた人物が、「江戸っ子」と称した句がみえる。つまり、あえて「江戸っ子だ」と主張しなければならない、当時は微妙なエリアから生まれた言葉だったように思われるのだ。同じように江戸の市街地から離れた、「坊ちゃん」(夏目漱石Click!)も盛んに「江戸っ子」を連発しているけれど、やはり旧・乃手出身で風俗習慣Click!の異なる微妙なエリアの人物だ。
 よく地元の話をすると、「じゃあ、風呂は熱いのが好きでしょ?」と訊かれるのだが、講談や落語の世界じゃあるまいし、わたしは熱い湯が苦手だ。ちょうどいい温湯(ぬるゆ)で、長時間つかっているほうが気持ちがいい。ところが、熱湯のような風呂が好きという人も、別に「江戸っ子」に限らず確かに存在していて、わたしにはとうてい入れないような湯に飛びこんでは真っ赤な顔をして我慢している。そんなにつらいのなら、水でうめれば(湯温を下げれば)いいのにと思うのだが、うめはじめるとさっそく怒り出す人たちが多いのにも困ったものだ。
 
 「草津温泉」あるいは「草津湯」(「塩湯」と呼ばれたところもあったようだ)と名づけられた銭湯は、別に下落合に限らず、明治末から大正期にかけては東京じゅうに点在していたのだが、一般の銭湯と異なっていたのは湯の温度だった。ふつうの銭湯の湯加減が42~43度ぐらいだったのに対し、「草津温泉」あるいは「草津湯」と温泉の名が付いた銭湯は、50度近い湯温をしていたと思われる。わたしには絶対に入れそうもない、まるで出川哲朗の罰ゲームのような熱湯(あつゆ)なのだが、湯を沸かすのに燃料をより多く消費するためか、入浴料も通常の銭湯よりははるかに高かった。1972年(昭和47)に三一書房から出版された、能美金之助『江戸ッ子百話』(爆!)から引用してみよう。
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 熱い湯と言えば、もとは東京には所々に草津湯とか塩湯とかの名称で、馬鹿げて熱い銭湯があった。湯銭は普通の浴場の三倍ぐらいであった。筆者はあまり所々の熱湯には行かぬ故よく知らねど、若かりし時、浅草新畑町(略)の草津湯か塩湯かには時折り行って、いつも熱いのに驚いていた体験があった。今より五十年前、明治の末年頃のことである。(中略) 流し場に下りると、熱湯には千軍万馬の豪傑の中老人や大老人が、多くは鉢巻して流し場に腰かけ、新入者が水でもうめたらばどなろうと、恐しい顔色でにらめている。また、昔の戦いの矢よけの楯のような長板に寝て、長湯の疲れを休めているのもある。風呂の中は実に驚くべき熱湯なのに、入浴者はほとんど鉢巻して静かに沈んでいる。筆者等青年があまり熱いので入れずマゴマゴしていると、素人には入れぬよとぬかす。いつまでもひやかされて入らぬこともできぬ故、一生懸命になって入ると、熱いの何のと言うて話にならず、足の指がピリピリ痛むので我慢できず飛び出ると、なぜ静かに出ぬかと一斉攻撃された。(同所「銭湯と江戸ッ子」より)
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 熱湯からあわてて飛び出した著者たちを、老人たちがすかさず叱りつけたのは、湯が動けばそれだけ湯の熱さが強烈に感じられるからで、もはやオバカとしかいいようのない半分拷問のような入浴だ。この老人たちは、熱湯のせいで血圧や心臓、脳などに少なからずダメージを受け、寿命を何年か縮めているのではないだろうか。
 さすがに、火傷をしそうなほど熱い銭湯の話は、きょうびまったく聞かなくなったけれど、おそらく大正末か昭和初期のころに、「草津温泉」の系譜は絶滅したと思われる。湯銭がふつうの銭湯の3倍もしていたのでは、だんだん入浴する人たちも減っていっただろう。また、仕舞湯に近い時間まで50度前後の湯温をキープするには、膨大な燃料費がかかっていたにちがいない。単純に考えれば、通常の銭湯の3倍もの薪が必要だった勘定になる。
 親父たちの世代には、時間によって銭湯の割引き制度があったようだ。銭湯の営業が終わりに近づくと、「仕舞湯」といって通常の料金よりも安く入れてくれたらしい。当時は、仕舞湯にでもなれば湯は汚れ、湯の温度もそれほど熱くはないので割引きになったのだろう。ちょうど、閉店前のスーパーの安売り・投げ売りと同じような感覚だ。でも、今日のようにいつでも清潔なシャワーが使え、サウナや薬湯など付加価値のついたサービスが普及すると、割引きなどしていては赤字になってしまうだろう。最近は3階以上をマンションにして、多角経営化する銭湯がめっきり増えた。
 

 中ノ道Click!(中井通りClick!)を、ウロウロしていた佐伯祐三は、「草津温泉」Click!に入っただろうか? 自宅兼アトリエでは、おそらく「菊の湯」か「福の湯」へ通ったと思われる佐伯だが、もし冬季の写生の帰り道Click!で身体が冷え切っていたとすれば、「ちィと寄ってこかいな」と暖簾をくぐったかもしれない。でも、湯舟に片足を突っこんだとたん「アッ、アホか~!」と飛び出しただろう。
 まったくの余談だけれど、その昔「世界史」でナポレオンが流された島名や年代を暗記するのに、「熱すぎて セントヘレナい(銭湯入れない) いやヒドイ(1815年)」と憶えたヤツがいた。

◆写真上:いまでも惜しむ声が聞かれる、2008年(平成20)に廃業した下落合駅前の「竜の湯」。
◆写真中上:左は、佐伯祐三が『下落合風景』でも描いている聖母坂上「福の湯」の煙突。右は、上落合の古川ロッパ邸や鈴木文四郎邸の跡近くにある銭湯「有波」。
◆写真中下:左は、尾崎翠や林芙美子が通った上落合の「三の輪湯」。右は、彫刻家・藤川勇造/洋画家・藤川栄子のアトリエClick!隣りにあった上戸塚(高田馬場)の「福の湯」(旧・石塚温泉)。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合1866番地の「草津温泉」。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1869番地(地番変更後)の「草津温泉」。下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』(部分)の「草津温泉」煙突。西武電鉄の中井駅が開設される直前の情景と思われ、駅前の道路の大規模な改修(道筋変更)の様子を描いている。「草津温泉」は、同位置で「ゆ~ザ中井」として現在でも営業をつづけている。