世の中には、ちょっと理解のできない不思議な偶然が重なることがある。以前にも書いたけれど、特に落合地域のことを書くようになってから、そんな不思議なめぐりあわせに数多く遭遇してきた。さまざまな資料類が絶妙のタイミングで、わたしの手許へ引き寄せられるようにとどいたり、わたしの知りたい情報をお持ちの方が、まさにその瞬間、目の前を横切られたりするのだ。今回の偶然も、あまりにできすぎていて、ケタ外れのビックリ度だった。
 前回、鬼頭鍋三郎Click!が西落合1丁目293番地に建てたアトリエの記事Click!をアップする、まさに予定日の午後に、仕事場を抜け出したわたしは、同区画あたりの街並み写真をもう一度撮影しに出かけた。鬼頭アトリエの地番は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の東長崎駅から歩いて10分足らずの距離なのだが、旧・西落合1丁目の北端へ足を踏み入れたところで、地名が落合町葛ヶ谷から西落合へと推移する昭和初期に建てられた和館の門脇に、デッサン用のヴィーナス石膏像がまるで道しるべのように置かれていて、「あれっ?」と奇異に感じたのがはじまりだった。西落合一帯は空襲を受けていないので、戦前の建築があちこちに残っている。
 この和館の西側一帯が、西落合1丁目293番地(現・西落合4丁目)の区画で、表通りから入る三間道路と細い道とが南北に通っている。その細い道の、北へ向かって右手の区画すべて、および左手の北寄りの部分が293番地の旧地番に相当する。1938年(昭和13)作成の「火保図」に描かれた家の全12軒が、昭和初期の同地番に建っていたことになる。本田宗一郎邸(旧・松平邸)の前から、その細い道を見やると、オレンジ色の瓦を載せた洋館の屋根がチラリと見えた。平屋造りで、濃い緑に囲まれた瀟洒でかわいい西洋館だ。
 昭和初期に建設された、いまに残る建物の貴重な1軒なので、さっそく写真を撮らせていただいた。その北側の路上を見やると、10mほど先にいままさに買い物へ出かけようとするおばあさんと、近所の方らしいおじいさんが親しげに立ち話をしている。このぐらいの年齢の方々なら、1945年(昭和20)の敗戦直後までここで仕事をしていた鬼頭鍋三郎、そしてアトリエの場所をご記憶かもしれないと、ためしに声をかけてみることにした。
★その後、鬼頭鍋三郎の長男である鬼頭伊佐郎様より、松下邸敷地の鬼頭アトリエは1945年(昭和20)まで鬼頭鍋三郎が使用していたことをご教示いただきました。ここに掲載した鬼頭邸は自宅であり、アトリエは付属していないことが判明しました。詳細はこちらClick!で。
 「このあたりに、鬼頭鍋三郎のアトリエがあったんですが、ご存じありませんか?」
 「ここよ!」、おばあさんが即座に答えた。
 

 わたしは驚いて、危うく買ったばかりのカメラを落としそうになりながら、目の前の2階家を見あげた。「ここが、鬼頭鍋三郎さんのアトリエ跡よ」。わたしは、鬼頭アトリエの目の前に立っていたのだ。おばあさん(福嶋様)はつづけて、「この人(おじいさん)が、戦後、鬼頭さんから家を買って、いまの家を新築したのよ」。わたしは、もはや両手を挙げてバンザイするしかなかった。「わたしは、鬼頭さんのすぐ隣り、そこの、北隣りにずっと住んでるのよ」と福嶋様。
 西落合1丁目293番地の鬼頭アトリエは、同じ「サンサシオン」Click!の盟友だった松下春雄Click!のアトリエ、すなわち1934年(昭和9)以降は柳瀬正夢Click!のアトリエから、歩いてわずか1分以内にたどり着ける地点だった。福嶋様はこのあと、驚くべきことを語りはじめた。
 「わたし、いま90歳になるのだけれど、隣りに住んでたから昭和17年の20歳のとき、鬼頭鍋三郎さんに頼まれてモデルをしたことがあるのよ」、わたしはめまいがしそうになった。「鬼頭さんのアトリエは、2階家じゃなくて平屋の西洋館。ちょうど、あちらの家みたいな感じかしら」と、先ほどわたしが撮影していたオレンジ色の瓦屋根をもつ西洋館を指さした。
 「アトリエにいると、ええと、なんていったかしら・・・よくお見えになった画家がいたのよ、ええと・・・」、「田村さんですか?」、「そうそう、田村さん! その方が、しょっちゅうみえていたわ、懐かしいわねえ。イサオちゃん、元気でいるかしらねえ・・・」。
 わたしが柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様Click!からご教示いただいていた、隣りの江古田から鬼頭アトリエを毎日のように訪問していた洋画家・田村一男の名前を出すと、福嶋様は彼のこともハッキリ憶えていた。1942年(昭和17)現在の『日本美術年鑑』によれば、田村一男は中野区江古田1丁目237番地にアトリエをかまえている。ちょうど井上哲学堂Click!前あたりの住所なので、鬼頭鍋三郎のアトリエまでは歩いて10分もかからなかっただろう。また、「イサオちゃん」とは、鬼頭鍋三郎の長男・伊佐郎のことだろう。鬼頭鍋三郎の子息と思われる、もうひとりの名前も福嶋様は「ちゃん」付けで話されたのだが、残念ながら失念してしまった。
 
 
 「鬼頭さんの庭にはね、ほらそこに、そこに大きな桜の樹があったのよ。春になると、みごとな花が咲いて、とてもきれいだったのよ」と福嶋様、「あまりに大きくなったから、南の陽当たりが悪くなって、伐っちゃったんだけどね」と、鬼頭アトリエ跡に住む猿井様がそれを受けて答える。「いまでも庭に、鬼頭さんが植えた桜の切り株があるんだよ、見てくかい?」と、猿井様はご親切にわざわざ庭へ招き入れてくれた。1947年(昭和22)の空中写真で見ても、桜は鬼頭アトリエ敷地の南西側を大きく覆い、すでに大樹となっていた様子がうかがえる。切り株は、あまった植木鉢の置き場として利用されていたが、なるほど大きな桜だったのがわかる。
 ここで、鬼頭鍋三郎がどのような創作生活を送っていたのか、2010年(平成22)発行の『月間美術』11月号に収録された、中山真一「鬼頭鍋三郎と<サンサシオン>」から引用してみよう。
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 当時の鬼頭は、視野のひろい勉強家でもあった。酒は一合ほど。あとは夜ふけまで読書の毎日。趣味は川釣りや植物栽培など。自然の観察は、野鳥なども含めて深かった。交友もひろい。美術会派などあまりこだわりはなかった。後年、「今の若い絵描きは会派がちがうとすぐケンカになる。いったいどうなっとるんだ」とよく口にしたという。/一九三二年(昭七)から東京にアトリエをかまえていた鬼頭は、終戦をさかいに名古屋へもどった。戦後も、バレリーナの連作など戦前からの典雅な女性像をやはり中心にして描く。一年あまりの滞欧では、驚異的とも言うべき旺盛で溌剌とした制作活動を行なうとともに、ヨーロッパ各地の古典美を精力的に研究した。
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 さて、1942年(昭和17)にモデルをつとめた90歳の福嶋様だが、鬼頭鍋三郎のどの作品がそれに該当するのだろうか? 引用文にもあるとおり、鬼頭は戦前戦後を通じて数多くの女性像を手がけている。また、制作年も1942年にピタリと一致するとは限らないだろう。そのころ発表した、女性像の作品すべてに可能性がありそうだ。作品の特定ができたら、改めてご報告したい。
 突然の取材にもかかわらず、いろいろ貴重なお話をお聞かせいただき、またわざわざお庭を拝見させていただき、ほんとうにありがとうございました。>福嶋様/猿井様

◆写真上:西落合1丁目293番地(現・西落合4丁目)の、鬼頭鍋三郎アトリエ跡。
◆写真中上:上左は、西落合へ入ったとたん目についた道端の石膏像。上右は、昭和初期に建てられた和館。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる鬼頭アトリエとその周辺。
◆写真中下:上左は、鬼頭アトリエの跡に家を建てられた猿井様。上右は、元・鬼頭邸の庭に生えていた大桜の切り株。下左は、鬼頭アトリエ跡の前でモデルになった福島様(右)と猿井様(左)。下右は、鬼頭アトリエの南隣りにあたる当時のままの西洋館。
◆写真下:鬼頭鍋三郎の作品より、1934年(昭和9)の『画室』(上左)、1940年(昭和15)の『マンドリンを持つ女』(上右)、1947年(昭和22)の『椅子による』(下左)、制作年不詳の『縫い物』(下右)。