1907年(明治40)に学習院長へ就任した乃木希典Click!は、学生にときどき講演(講話)を行なっていたようだ。2年後の1909年(明治42)6月24日にも学生たちへ講義をしているのだが、その内容を子どもに聞いた親たちから顰蹙(ひんしゅく)をかっている。
 いや、華族の親たちばかりでなく「白樺」の同人たち(武者小路実篤Click!や芥川龍之介など)や、学内の「白樺」派学生たちからはバカにされ、ますます皮肉かつ嘲笑的な眼差しを向けられるようになり、「前近代的な過去の遺物」と揶揄されたことだろう。乃木が講義したのは、彼が若いころに金沢の宿で体験した、稲川淳二ばりの心霊レポートだったからだ。
 講演録は、現在でも学習院大学Click!に保存されているけれど、それによれば乃木希典は殺人があった家だとは知らずに泊めてもらい、夜半に女の幽霊を何度か目撃している。時代は明治維新の直後、1869~70年(明治2~3)ごろで、乃木がまだ20歳のころの出来事だった。彼は所要で金沢に出かけ、地元の萩原という家に何日か宿泊している。この家には、留守番の老婆がいるだけで、家人は旅行に出ているのか誰もいなかった。
 家は3階建てにもかかわらず、乃木を見晴らしのいい3階には泊めず、老婆は2階にばかり寝かせていた。彼にはそれが不満で、3階の部屋には誰もおらず空いているのを確認すると、老婆へ今夜は3階に寝床をとるよう頼んで外出した。でも、外出からもどると布団は相変わらず2階に敷かれているのを見て、彼はさすがにカチンときたようだ。翌朝も同じことを頼んで外出したが、宿へ帰ってみれば「お床は、やはり2階にとりました」と、老婆はしれっとしていった。
 乃木は、老婆が布団を3階へ運びあげるのが億劫なのだろうと気をきかせて、「布団は自分で運ぶから」というと、ようやく老婆は「お客さまに、そんなことをおさせしては」・・・と、しぶしぶ3階へ布団を敷いた。3階からの眺めはすばらしく、金沢の街並みが一望できた。電気がない時代なので、この時代の人たちは夕食後それほど間をおかずに床へ入る。乃木も横になって、少しウトウトしかけた。
 
 
 すると、誰かが部屋の中に入ってきた気配がして、乃木は急に意識がハッキリした。女が蚊帳の上からのしかかるように、ジーッと自分を見つめている。思わず飛び起きて、蚊帳を透かして四方を確認したが、もう誰もいなかった。彼は女の夢をみたのだと思い、再び横になってウトウトしかけるとまた女が現われ、蚊帳へ顔を押しつけるようにしながら、こちらをジーッと見つめている。その繰り返しで、彼はとうとう朝まで眠ることができなかった。
 乃木は、幽霊があまり怖くはなかったらしく、次の日も3階に床をとらせて女をもう一度じっくり観察してみることにした。その晩、女が現われるのをジッと待ちかまえていると、今度は目がさえてなかなか眠れなくなってしまった。エンエンと目を開けて待っていたのだが、午前0時をすぎても2時をすぎても女は現れなかった。ようやく、午前3時をまわって乃木がウトウトしかけたとき、とうとう昨夜と同じ女が蚊帳の外に出現して、蚊帳ごしに彼の顔をジーッとのぞきこんでいるのが見えた。
 
 
 乃木は機敏に起きあがり、すぐさま蚊帳をハネのけたのだが、女の姿はすでにかき消えてどこにもなかった。「女、出てこい!」と叫んだが、あたりはシーンと静まり返っていて、もはや女の気配はみじんも感じられなかった。どうやら、その女は人が眠りに落ちるときにしか出現しないようだった。翌日の晩、明らかに寝不足の顔で疲労感がただよう乃木を心配したのか、老婆は再び寝床を2階に敷いた。乃木は、今度は黙ってそのまま2階で寝たようだ。
 夜な夜な現れた女の正体が知れたのは、かなりあとになってからだ。乃木が宿泊した萩原家では、先代の時代にひとりの女が殺されていた。女は先代の妾だったが、若い男と密通しているのがバレて、怒った主人が女を3階の柱に縛りつけ、食事を与えずに餓死させていたのだ。以来、3階には女の霊がたびたび出没するようになったのだという。
 乃木希典Click!は学生たちへの講演で、この怪談話をどのような口調で語って聞かせたのだろうか? よくダジャレを飛ばしては、学生たちから親しまれた(失笑をかった)というが、死後につくられてしまった乃木のイメージとはやや異なる人物像が、その講演録からはうかがい知れる。かなり話し好きだったというから、現代に生きていたとすれば、さっそく心霊ビデオに出演していたのかもしれない。
 
 
 「これは、ある街の、仮にK市とでもしときましょうか、あたしが懇意にしてる、赤坂にある旅館の女将(おかみ)の知り合いの、そのまた親友の横にある神社の隣りに住んでた、仮にNさんとでもしときましょうか、彼が実際に経験したことなんですけどね~(#59000;)。・・・どこからか襖の開く音が、シュュューーーーッ、トン、トン、トン、トン、トン、トン・・・、女らしい軽い、微か~な足音が、ゆっくりゆ~っくり近づいてくる。フッと目を開けると、枕元の蚊帳の上あたりから、血の気のない、髪をふり乱して痩せ細った女の顔が、グーーッと迫ってくる。イィィィ~~~~~~ッ! こちらをジーーッと上から睨んでるんだ。ウゥゥゥゥゥーーーーーッ、怖い怖い、怖い、怖いんだこれが、すっごく怖い! ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・冷たい汗が、額といわず首筋といわず、ジワーーッと全身から吹き出してくる。でも、次の瞬間、フッと見ると、・・・いなーい。いまそこにいた女が、もういなーい。やっと身体が動いたNさんは、飛び起きて、急いで蚊帳の外に出てみたんですけどね~(#59000;)、もうだ~れもいないんだ。あたりは、シーーンと静まり返ってる。Nさんは軍人ですからね、なにかに怯えて、幻覚を見るタイプじゃないはずなんだ。ぃやぃやぃやぃや、こんな不思議なことって、あるもんなんですねえ」・・・というような講演をしていたとすれば、わたしも乃木希典のイメージをちょっと変えなければならない。

◆写真上:学習院寮の総寮部にあった乃木希典の居室で、「乃木館」として保存されている。
◆写真中上:上左は、片瀬海岸の海水浴で学生たちと楽しいそうにすごす笑顔がめずらしい乃木希典。上右は、当時の総寮部にあった乃木希典の居室。下左は、1908年(明治41)に撮影された竣工したばかりの学習院正門。下右は、冬枯れの学習院大学キャンパス。
◆写真中下:上は、いまもキャンパスに残されている明治期の寮建築。下左は、以前の記事でもご紹介したお行儀のよい牝馬のシリカちゃんClick!(香桜号)。あれから、学習院馬場へ立ち寄るたびにかわいがっている。下右は、キャンパス南側の急峻な学習院バッケ。
◆写真下:1908年(明治41)に学習院が高田村金久保沢Click!(現・目白)に建設される際、キャンパスの敷地に沿って打たれた大量の境界杭で、現在もあちこちで見つけることができる。