1928年(昭和3)に、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の経営がかなり悪化している。1922年(大正11)に池袋-所沢間が電化された同線は、とうに客車運行をスタートしていたのだが、利用客が思ったほど増えなかった。西武電鉄(現・西武新宿線)よりもはるかに歴史の古い武蔵野鉄道だが、この時期、同線は西武鉄道の経営を模倣しようとしていた。
 西武電鉄は、1927年(昭和2)に下落合駅Click!あるいは高田馬場仮駅Click!までの営業をスタートすると、さっそく郊外を散策にやってくる観光客Click!や、沿線に開発がつづく新興住宅地Click!への住民誘致、ひいては西武電車の利用客増加へ向け、さまざまなメディアを使いながら積極的な宣伝活動を展開していた。また、大正初期から建築資材の運搬を手がけてきた西武鉄道は、関東大震災Click!後の復興耐火建築用に東京市街でセメントや砂利の需要が高まると、その採掘をはじめ備蓄・物流拠点づくり、貨物輸送事業などを軌道に乗せている。武蔵野鉄道としては、西武鉄道が発表する経常利益の右肩あがりを横目で見ながら、どうすれば利用客の増加と収益増が見こめるものか、経営会議における最大課題となっていただろう。
 そこで、武蔵野鉄道としては西武鉄道が行なっているプロモーションを、ほとんどそのまま模倣しようとした時期があったようだ。まず、東京郊外の散策や観光ブームにのって、名所・旧跡の紹介や遊園地(当時は私設公園・庭園のような意味合い)の開発、「文化村」ライクなしゃれた新興住宅地の造成Click!などを行い、広報宣伝活動を大々的に展開している。西武鉄道とまったく同様に、楽しげな鉄道沿線パンフレットをこしらえて、観光客や沿線住民を少しでも集めようとしていたようだ。ことに、目白文化村Click!を開発していた堤康次郎Click!を巻きこみ、下落合の有力者だった小野田家の姻戚筋が住む大泉村(現・大泉学園)へ、学校誘致を前提とした学園都市の建設計画を起ち上げるなど、武蔵野鉄道は各方面へ積極的に働きかけたにちがいない。
 しまいには、「明日の日曜は、新緑の村山貯水池畔へ」などと、まるで西武電車Click!の広告版下をそのまま借用し、鉄道名だけ「武蔵野鉄道」に入れ替えたような新聞広告さえ登場した。これは1929年(昭和4)5月、武蔵野鉄道に狭山線の村山公園駅(現・西武球場前駅)ができたためだが、西武鉄道としては面白くなかっただろう。村山貯水池の建設では、1916年(大正5)から西武鉄道は協力してきており、貯水池(多摩湖)とその周辺施設や公園もまた、同鉄道による開発事業が多かったからだ。利用客の増加をめざして、せっかく力を注いで投資し宣伝してきた観光事業へ、武蔵野鉄道が“無賃乗車(タダ乗り)”していると西武鉄道側では感じていたかもしれない。
 さらに、武蔵野鉄道がもうひとつ模倣したのは、東京市内で需要の多いセメント輸送Click!だった。同鉄道が大株主となった東京セメントと結び、一種の賭けに近い建築資材の輸送事業だ。東京セメントの視座から見れば、いまにも経営破綻を起こしそうな大株主である武蔵野鉄道を救うための窮余策ということになる。1928年(昭和3)7月25日発行の、読売新聞から引用してみよう。
 
 
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 東京セメントの出現! 果然関東の市場に一大衝動を起す
 一杯喰はれた浅野 激憤して愈よ宣戦
 昨報東京セメントの創立は到底真面目な計画とは見られず好転せるセメント界を刺激して結局浅野辺りに売込を策して居るものと見られてゐたが同社の創立事情に就き確聞するに、同社の主体たる武蔵野鉄道が最近の不況を挽回する為めに貨物運搬数量増加を目的として創立した武蔵野鉄道救済会社である。然るにこれが実現すれば従来の競争激甚を漸く緩和された関東市場は些少乍ら混乱気味となり、殊に地盤関係で秩父及其姉妹会社たる秩父鉄道と東京セメント及其主体なる武蔵野鉄道の競争となり、勢ひ磐城、浅野も圧迫されることゝなるので、浅野ではこの計画を阻止することに努めその代償として東京セメントの原石山となるべき阿我野から武蔵野鉄道を通じて一日五百トン以上千トン迄の石灰石を明年一月以降十五ヶ年間浅野に供給する契約を結んだのでこの契約に依つて当然同社の創立計画は放棄される筈なるに拘らず、更に第二段の策として会社売込を目的として創立を終つたのである。
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 ちなみに、戦前のセメントは樽に詰められていたと考えられがちだが、すでに袋状のパッケージによる輸送も開始されており、鉄道やトラックによるセメント輸送は、より容易かつ効率的に行なわれていただろう。セメント樽は重く容器もかさばるため、貨車やトラックの荷台へ一度に大量のセメントを積載することができないが、袋状のパッケージであれば積載がフレキシブルで、輸送効率も格段に高まっただろう。ただし、今日のように強固な防水厚紙による梱包ではなく、防水紙の袋にセメントを詰め、さらに麻袋でくるむという二重の袋詰めだったようだ。当時の浅野セメントの工場に取材したルポ記事が、1926年(大正15)8月17日の読売新聞にみえるので引用してみよう。
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 又セメントと云へば樽詰とばかり思つて居たら近頃は麻袋入が流行しこれは重量も十一貫見当で運搬に便利なために調法がられてゐるそうだ 湿気止めの為には防水紙を入れてある。出来上つたセメントが此等の樽や麻袋に巧妙に盛り入れられて搬車に積まれる順序も流石に慣れたものでその早いことは誠にめまぐるしい (句読点ママ)
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 さて、西武鉄道の事業路線を模倣しようとした武蔵野鉄道だが、結果はかんばしくなかったようだ。1934年(昭和9)には、ついに債権者側の強制執行が入り、日々の売上金がすべて執行官に差し押さえられるという異常事態にまでなってしまった。翌年には、東京電燈の電気料金滞納で、同鉄道への送電の一部がストップされるという最悪の状況を迎えている。鉄道会社の電車が送電を一部でもストップされたら、もはや経営は成り立たない。これらの危機からようやく脱していくのは、同鉄道の大株主となっていた堤康次郎Click!の再建策が軌道に乗ってからだ。
 
 強制執行官が入り一部の送電も止められて、経営が事実上破綻してしまった武蔵野鉄道だが、それ以前から同鉄道と西武鉄道の合併話が、新聞紙上に掲載されるようになる。合併話が急に浮上したのは、同じく池袋駅を起点とする東武東上線が、1929年(昭和4)の秋に電化を完了することが大きな影響を与えたからだ。東武電車と西武電車に挟まれた武蔵野鉄道は、ますます経営が困難になるとみられていた。1929年(昭和4)7月9日に発行された読売新聞から引用してみよう。
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 東武東上線の電化で武蔵野と西武の村山線が合併か
 競争激甚の余波・・・
 東武鉄道の東上線(池袋寄居間四十六哩半)は今秋電化計画が完成するがこれを機として武蔵野鉄道(池袋飯能間)(二十七哩二分)及び西武電鉄の村山線(高田馬場東村山間十四哩九分)が合同して一会社を組織せんとする議が台頭し、各社の重役の意見は殆ど一致してゐるから何れ近いうちに実現される模様である。右三線は高田馬場池袋付近より出発するもので所沢及び川越に於て夫々交叉し競争線の形となつてゐるが東武東上線の電化が完成すれば競争益々激甚となることを憂慮して早くも合同議が持上つてゐるわけで斡旋によつて成立を見るであらうが具体案に於ては種々困難を伴ふものと視られてゐる
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 この記事で、大手一般紙も西武鉄道のことを「西武電鉄」と表現している点に留意したい。「西武鉄道」は企業名であり、「西武電車」は同社が新聞紙上に媒体広告を反復掲載して一般に浸透させたかった同線の“愛称”であり(新宿発の荻窪方面行きの同線と混同するためか、あまり浸透しなかった)、「西武電鉄」ないしは「西武線」が地元を中心に東京へ実際に広く普及していった呼称だ。だからこそ、各町ごとの地図や東京区分図などにも同名が採用されている。この読売新聞の表現は、当時から一般的につかわれていた呼称を踏襲しているにすぎない。この関係は今日、誰も山手線のことを「東日本旅客鉄道・山手線」などと呼ばないのと同様だ。同社が浸透させたかった愛称が“E電”であり、一般に普及しているのが「ジェイアール山手線」という結末とまったく同じなのだ。

 武蔵野鉄道はその後、日中戦争にともなう軍事施設や軍需工場の積極的な沿線誘致にともない、貨物輸送や利用客が少しずつ増加し、経営危機を徐々に脱していった。1944年(昭和19)には、戦時下におけるスムーズな食糧調達・増産の必要性から、西武鉄道と武蔵野鉄道は合併している。

◆写真上:椎名町の古い駅舎から、東長崎駅方面を眺めた西武池袋線(旧・武蔵野鉄道)。
◆写真中上:上左は、戦後に廃止となった上屋敷駅Click!をすぎたあたりの同線。上右は、1929年(昭和4)5月25日の読売新聞に掲載された、まるで西武鉄道を思わせる武蔵野鉄道の「村山貯水池」媒体広告。下左は、西武鉄道による「多摩湖ホテル」の完成を伝える1928年(昭和3)3月16日の東京朝日新聞。下右は、東京市公園課によって東村山公園の完成を貯水池の空中写真とともに伝える1928年(昭和3)4月10日の東京朝日新聞。
◆写真中下:左は、西武鉄道によって上井草で企画された1927年(昭和2)6月23日の読売新聞に掲載された軟式テニス大会広告。西武鉄道では、さまざまなイベントを企画して同線への乗客誘致を試みていた。右は、武蔵野鉄道を救済するために企画された東京セメントの事業内容と、同線による貨物輸送計画を伝える1928年(昭和3)7月25日の読売新聞。
◆写真下:東武東上線の電化と武蔵野鉄道の経営行き詰まりを背景に、早くも西武鉄道と武蔵野鉄道の合併を予測する1929年(昭和4)7月9日の読売新聞。