秦早穂子は怒っていた。1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で、目白の街並みが焼けるのを見ながら・・・、大人たちが同年8月15日を境に、みながみな「民主主義者」に豹変する姿を横目でにらみながら、秦早穂子は怒っていた。どいつもこいつも「勝手にしやがれ」、このフレーズが彼女の心に響きはじめたのは、このころからではないだろうか?
 2012年(平成24)1月、日本経済新聞に連載された「人間発見・秦早穂子」から引用してみよう。
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 45年4月13日の空襲で目白の家が焼けました。焼夷(しょうい)弾による類焼はパシャパシャと不思議な音をたてます。私は下の妹をおぶって逃げました。明け方背中の妹がおしっこをした感覚が伝わったとき「ああ、生きてる。良かった」と思った。そして翌朝見たのは一面の焼け野原。/数万冊の蔵書が焼けて父の絶望は深かった。私は疎開先での「何もしないで働かない人たち」という地元の人たちの言葉が心に突き刺さりました。(中略) 人間、飢えてはいけない。飢えては、思想も理想もない。/自分の力で食べていこう。働きながら、勉強しよう。ちょうど新制高校への切り替えのころで、学校に1年残って大学に進む道もあったでしょう。でも、もう大人の言うことは聞くまい。「国のために死ね」と教え、今度は「生きよ」という。変わり身の早い大人たちはもう信じない。
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 1945年(昭和20)4月13日の鉄道線路や駅、河川沿いの中小工場地帯をねらった第1次山手空襲で被災していることから、秦早穂子の自宅は目白駅のごく近く、あるいは山手線沿いに建っていたと思われるが、山手線や目白通りをはさんで下落合側なのか目白町側なのかはよくわからない。彼女の「早穂子」という名前は、関口台町(現・文京区関口で椿山荘の北東側)に住んでいた佐藤春夫に付けてもらっており、佐藤の自宅へは父親とともによく訪問していたようだ。

 また、下落合623番地の曾宮一念Click!や同604番地の牧野虎雄Click!、第一文化村Click!の秋艸堂Click!へ転居したころの会津八一Click!などの家も訪ねているので、「目白」といっても下落合側に住んでいた可能性もある。父親は学究肌の人で、近所の芸術家たちと親密に交流していたらしい。
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 関口台町(略)の佐藤春夫先生のお宅には、父によく連れていかれました。佐藤先生は私の名付け親。門弟3千人というだけあって、スペイン風の家にはたくさんの大人が出入りし、文学サロンとなっていました。/年賀客であふれる正月は千代夫人の手料理でもてなされ、子供の私にも1人前のお盆が出ました。奥の畳場の中央に佐藤先生が座り、左隣は堀口大学。畳には井上靖、舟橋聖一、檀一雄。なぜか父もそこにいた。戦後は板敷きの下座にデビューしたばかりの吉行淳之介や安岡章太郎がいました。/目白駅から落合(現・新宿区)方面には歌人で書家の会津八一、洋画家の牧野虎雄、曾宮一念といった先生方が住んでいました。怖い存在の大人たちで、お目にかかるときは緊張の連続でしたが、芸術家がもつ強い個性は、記憶に残ったものです。
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 秦早穂子の“怒り”の堆積は、空襲で家が焼けた敗戦時からはじまり、戦後、映画の仕事でパリに住むようになってからもつづいていたようだ。フランス映画の新作から、日本でヒットしそうな作品を選んで買いつける仕事をまかされた彼女は、常に「映画」というジャンルに対する無理解な人々の差別にさらされ、フランスにおける外国人に対する排外的な生活上の差別も重なり、それらの重圧感からパリの自室で毎日嘔吐を繰り返す生活だった。

 1959年(昭和34)7月のそんなある日、映画プロデューサーから誘われて20分間の未編集のラッシュを観に出かけた。当時、フランスの映画界ではヌーベルバーグ(新しい波)の流れが顕著になりつつあり、彼女が観たラッシュもそのような映画の1作だった。ジャン=リュック・ゴダールClick!監督が制作し、いまだ未編集だった『A bout de souffle(息切れ)』という作品だった。
 彼女はプロデューサーに「(購入を)検討する」と答えたが、その映画をすぐにも購入して日本へ送ることに決めていた。日本の配給会社へ送るにあたり、邦題を決めなければならなくなった彼女は、相変らずつづいていた“怒り”を映画のタイトルにかぶせた。『勝手にしやがれ』----。
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 「勝手にしやがれ」というタイトルは私自身の気持ちの吐露です。あのころの若者は怒っていたと思う。私も怒っていた。/若いくせにパリで映画の選択なんて、とやっかまれながらも、現状は屈辱にまみれていた。映画人の地位も低かった。若い私はかたくなに怒っていた。同時にそういう自分を冷静に見てもいた。いつ首を切られても、失う物は何もない。「勝手にしやがれ」と。
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 ゴダールの『勝手にしやがれ』を完成前に買いつけたのは、日本の秦早穂子が最初だった。東京で『勝手にしやがれ』が封切られたのは、同作が完成した直後の1960年(昭和35)3月26日であり、パリでの封切りからわずか10日後、ほとんどパリと東京での同時上映だった。
 
 
 ほぼ同時期に、秦早穂子はルネ・クレマン監督のラッシュを観て気に入り、さっそく買いつけようとするのだが、提示額が高すぎるという理由で会社がなかなかクビを縦にふらない。貧しい男がカネ持ちの男にあこがれ、贅沢な生活や恋人に嫉妬し、ついには殺して本人になりすますというストーリーが、当時の日本人の心情へ響くと彼女はどこかで確信していたようだ。ルネ・クレマンの『Plein soleil(照りつける太陽)』。邦題も彼女がつけたが、今度は“怒り”のタイトルではなかった。いまでも、邦題を聞くだけで南欧の光と潮風の匂いが漂う、『太陽がいっぱい』(1960年)----。

◆写真上:関口台町の佐藤春夫旧邸跡で、現在でも周辺には大正・昭和初期の家々が建つ。
◆写真中上:1947年(昭和22)の空中写真にみる、焼け野原が拡がる目白駅周辺。
◆写真中下:今年の1月に連載された、日本経済新聞の「人間発見・秦早穂子」。
◆写真下:上は、『勝手にしやがれ』(左)と『太陽がいっぱい』(右)のそれぞれワンシーン。下左は、『A bout de souffle』の出演者たちと秦早穂子で、背後の右端にはサングラスをかけたゴダール監督の姿が見える。下右は、『Plein soleil』に主演したアラン・ドロンと。