戦後、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した旧・下落合全域の「全住宅案内帳」Click!は、これまで戦前の地図類とともに何度か記事Click!にも引用している。また、同様に1966年(昭和41)現在の地図も引用してきた。目白通りをはさんだ椎名町(現・南長崎)地域では、1955年(昭和30)現在の「戸別案内図」が残されている。きょうは、それらを使って当時の情景をご紹介するとともに、わたしが学生時代にすごした界隈をご紹介したい。もっとも、わたしが親元から独立し、南長崎にアパートを借りて暮らしたのは1970年代末ごろからなので、これらの地図に描かれた街並みとはずいぶん異なっている。そこは、1982年(昭和57)のゼンリン地図で補足したい。
 わたしが、親元にいるとなかなか精神的にも経済的にも自立できないと考え、南長崎にアパートを借りて住んでいたのは1982年の春ぐらいまでだったろうか。このあと、下落合の聖母坂沿いに引っ越しているので、それ以降の南長崎の様子や変遷をよく知らない。1982年のゼンリン地図を見ると、わたしが借りていた南長崎4丁目の「柏荘」(すでに解体)とその周辺が収録されている。柏荘の前のアパートが、当時からおかしかったのだが「トキワ荘」ならぬ「トキワギ荘」だったので印象に残っている。このあたりの人たちは親切で、同じアパートの住人やトキワギ荘の方から“おすそ分け”をいただいた記憶がある。引っ越しのとき、下落合なら近いから遊びに寄ってよ・・・と言われたのだが、ついそのまま年月が流れてしまった。
 柏荘の並びには、椎名町教会と仲の湯Click!(旧・久の湯)が並んでいて、銭湯までは徒歩30秒だった。現在、椎名町教会は建て替えられてコンクリート建築になり、迎撃戦闘機が落ちてきた仲の湯(旧・久の湯Click!)は廃業してしまった。仲の湯が定休日だと、小野田製油所Click!を右に折れて、下落合(現・中落合)の第一文化村Click!の外れにあった人生浴場(旧・伊乃湯/萩の湯Click!)へ出かけていた。こちらの銭湯は名前をまったく記憶しておらず、昔の地図から「萩の湯」だと思いこんでいたのだが、わたしが通った1980年前後は人生浴場という名称だったことを、つい最近知った。どちらの銭湯にもコインランドリーが併設されていて、休日には洗濯に通ったものだ。

 
 このころ、富士美写真館Click!は「富士スタジオ」という名称で収録されている。富士美写真館(場)→富士スタジオ→東京写真工芸社という変遷だろうか? わたしはこの写真館の前を、何千回も往復しているはずだ。先のアパート柏荘を起点に、時間があると旧・下落合全域や長崎地域を歩きまわっていた。学校への行き帰りから、落合地域を歩くほうが圧倒的に多かっただろう。南長崎から高田馬場駅まで、またはそのまま歩いて学校まで通っていた。アルバイトのある日を除き、帰りは電車やバスの乗車賃がもったいないので、学校から南長崎まで歩いて帰ったこともしょっちゅうだった。もちろん、毎日歩く道筋を変えて帰宅しているせいで、70年代からの落合地域のいろいろな街並みや情景が、アタマの中に焼きついているのだろう。
 1955年(昭和30)の北が下になる「戸別案内図」を見ると、柏荘は西牧邸と本領邸の跡に建っていたことがわかる。その北側には、椎名町教会と思われる建物につづき、仲の湯が掲載されているのだが、当時は「第一仲の湯」となっているので複数の銭湯を経営していたものだろうか。その先を北へと進んで長崎バス通り(目白バス通り)に出ると、右手に小出幹雄様Click!の「スエヒロ堂」時計店がある。その東隣りには、現在の南長崎花咲公園となる東京都交通局の「大和寮」が建っていた。もともと、この敷地は都バスの折り返し終点車庫があったもので、現在のトキワ荘記念碑あたりの地下には、バスの燃料補給のためにガソリンタンクが埋められていたそうだ。
 

 都バスの終点が練馬車庫へと延長されるにともない、この区画は職員専用の寮として活用されていた。大和寮の向かいには、中沼伸一様Click!の「双葉洋服店」(テーラー双葉)も収録されている。また、大和寮の写真も何枚か残されているのが貴重だ。そこから、目白通りへと歩いていくバス通り沿いの左手には、「市場」と書かれた山政マーケットが記録されている。戦前、ここには寄席「目白亭」Click!が建っていた場所だ。山政マーケットの角を左(北東側)へ折れると、小川薫様Click!の実家である上原邸やヒカリビリヤードClick!、鶴の湯などがあった。わたしが学生時代、帰宅する途中でときどき寄っていたマーケットは、さらに進んだ目白通り近くのマーケットのほうで、山政マーケットではない。小川様との初期のやり取りで、多少の齟齬が生じていた点だ。
 1980年前後の山政マーケットの記憶はほとんどないけれど、目白通りに近い位置にあったマーケットはよく憶えている。たくさんのテント地で簡易的に仕切られた広い空間は、まさに市場と表現するのがふさわしく、わたしは学校の帰りにここで夕食用の肉や魚、野菜などを買った。休日の買い出しには、長崎バス通りのマーケットは利用せず、中落合側の小さなスーパー丸正か、十三間通りを渡った先、西落合の生協スーパーで買い物をしていた。ときどき、西武池袋線沿いの友人を訪ねた帰りなどは、椎名町駅の西側にいまも開店しているサミットストアもよく利用している。
 
 
 わたしは、いまでもヒマができれば落合地域や長崎地域をよく歩くけれど、当時に比べたら歩く距離がずいぶん短くなっている。学生時代は、平気で南長崎の柏荘から江古田にあったJAZZライブハウス「シャイニー・ストッキング」へ毎晩のように通ったり、高田馬場の「マイルストーン」Click!や「イントロ」Click!へ下落合の坂を苦もなく上り下りしながら往復したものだ。いまでも、目白崖線は頻繁に上り下りするけれど、聖母坂Click!の傾斜角がいちばんゆるい・・・とか、薬王院のバッケ階段Click!を一気に上がればあとがラクだ・・・とか、よけいなことを考えている自分にときどき腹が立つ。

◆写真上:1938年(昭和13)まで、南長崎の二又交番の位置にあった子育地蔵尊。下落合(現・中落合)側からの参詣者も多く、現在地に移転する際には世話人に落合住民も参加している。
◆写真中上:上は、1982年(昭和57)のゼンリン地図にみる、目白通り沿いの柏荘界隈。下左は、1960年(昭和35)の下落合の「住宅案内帳」にみる伊乃湯。下右は、1966年(昭和41)の同地図にみる人生浴場。銭湯名は、萩の湯(戦前)→伊乃湯(戦後)→人生浴場という変遷だろうか?
◆写真中下:上左は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる椎名町教会周辺。すでに教会はあったと思われるが、アパート柏荘はそろそろ建設されるころだろうか? 上右は、同地図にみる目白バス通り沿いにあった東京都交通局の大和寮(現・南長崎花咲公園Click!)の界隈。下は、田島米店の田島様が地図と同年の1955年(昭和30)6月26日12時15分に二眼レフカメラで撮影した、長崎バス通り(目白バス通り)沿いに立つ東京都交通局の大和寮。(小出幹雄様提供) 大和寮は、1階部分がコンクリート建築で上階が木造建築の独特な意匠をしていた。
◆写真下:上左は、やはり1955年(昭和30)ごろ撮影の大和寮を背景にした中沼伸一様(右)で、奥には斜向かいの双葉洋服店の看板が見える。上右は、もう少しあとの時代で大和寮が解体されてできた広場。(ともに中沼様提供) 下左は、やはり大和寮跡の広場で遊ぶ小出幹雄様(小出様提供) 下右は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる「目白亭」跡にできた山政マーケット周辺。