1910年(明治43)は、東京市民にとっては最悪の年だった。1894年(明治27)の明治東京大地震とともに、のちの1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!や、戦争による“人災”としての東京大空襲Click!などによって、それ以前に起きた大災害の印象は薄められがちだが、明治期の東京は江戸の安政年間Click!と同様に、地震と火災と洪水のトリプルパンチにみまわれている。
 1910年(明治43)の8月、小型の台風が静岡県沼津に上陸したのだが、勢力がそれほどでもない熱帯低気圧だと、東京中央気象台Click!ではタカをくくっていたのかもしれない。ところが、台風の直接的な威力はそれほどではなかったものの、降雨量が並みではなかったのだ。豪雨は8月10日と11日の2日間にわたって降りつづき、関東地方の河川のほとんどが氾濫した。東京では8m以上も水位が上がり、大川(隅田川)Click!をはじめ神田上水Click!と江戸川Click!(ともに1960年代より神田川)、荒川、六郷川(多摩川)など、ほぼ主要なすべての河川が氾濫している。
 東京市街の深刻な被害地域は、(城)下町Click!では下谷区と浅草区(現・台東区)、本所区(現・墨田区)、深川区(現・江東区)、山手では牛込区(現・新宿区)、小石川区と本郷区(現・文京区)などにおよび、洪水による低地(乃手では丘陵の谷間)への出水は、牛込区(現・新宿区)がもっともひどく水深3.3mで、下谷区(現・台東区)の3mを上まわっている。また、岩淵村(現・北区)や志村(現・板橋区)の平地では、水深が5m近くにもなり、もはや家屋の屋根上へ逃げても危険な状況だった。もちろん、水深が3mを超えれば2階屋までが浸水することになり、当時の一般的な住宅建築を考えると、被害がいかに深刻だったかがわかるだろう。
 東京市街地の水没戸数は14万3千戸にもおよび、避難所となった学校や寺院、公共施設などには被災者がすし詰め状態となった。竣工したばかりで、まだ使われていなかった新築の両国国技館Click!(現在の国技館ではなく別名・本所国技館のこと)を、罹災者たちの避難所にあてたのは、いまでも下町の語り草になっている。洪水の被害を食い止めるために、8月11日には東京府が政府へ軍隊の出動を要請し、赤羽工兵大隊が隅田川の決壊堤防を修復するために派遣されている。


 でも、工兵隊が出動したのは主要河川が中心であり、神田上水と江戸川(ともに現・神田川)は自然に水が引くのを待つような状況がつづいた。また、六郷川(多摩川)では台風が通過したあとでも洪水がつづき、河川敷の近くに建設された家々が次々に流されるなど、被害を止めることができなかった。多摩川のケースは、まったく同じ災害が戦後にも再び繰り返されることになる。「岸辺のアルバム」として印象深い同洪水は、堤防を過信しすぎて氾濫地域に住宅地を造成した明治期のケースと、まったく同じ轍(てつ)を踏んでいることになる。
 東京大洪水は、1923年(大正12)の関東大震災のときと同様に、「記念絵はがき」が発行されるほどの被害を東京地方にもたらしたのだが、それらの貴重な記録や写真類の多くは関東大震災で焼失し、その後の東京大空襲による戦災でもダメ押しのように失われて、現在ではきわめて貴重な記録となっている。大正期から昭和にかけて、東京は二度の大規模なカタストロフにみまわれているせいで、明治期以前の大洪水や大地震、大火災の記憶が薄れがちになっている・・・ともいえるだろうか。いまでは、見ることもまれな東京大洪水の記録写真なのだが、そのうちの93枚が近くの学習院大学にある史料館Click!(図書館)に残されていた。
 これらの写真が貴重なのは、東京を襲った台風による被害の資料としてばかりではない。江戸の元禄期や安政期に起きた直下型と思われる大地震による、江戸湾から襲来した津波の被害地を、ある程度想定することができるからだ。3mとも5mともいわれる津波は、江戸の河川を遡上しつづけ、市街地の奥まで深刻な被害をもたらした。河川の流れを押しもどすほどの津波が、流れくだる川と衝突してあふれさせるほどの威力をもつのは、今回の東日本大震災でも明らかだ。
 つまり、海から「動く高い堤防」がそれぞれの河川に次々と押し寄せ、流れにフタをし、水流を上流へと押しもどすことで、かなり内陸部にまで洪水を起こさせる現象が発生するということなのだ。よく、東京湾には津波を防ぐ水門があるといわれるが、開閉式の水門は電源が失われず激震でも機構のどこかが壊れない・・・という大前提で、初めて運用できるのだということを想起したい。


 江戸湾内に震源がある思われる津波なので、外洋性の津波に比べ高さはそれほどでもないのだが、河川をいっせいにさかのぼることで東京市街の平地や低地、さらに山手の河川沿いにある谷間などへ洪水をもたらす危険性が高いことがわかる。江戸期に起きた大地震の津波による内陸被害は、このようなメカニズムで発生したのだろう。そして、東京大洪水で河川による浸水被害を受けた下町から山手にかけての流域が、地震の規模と同時に津波の高さや威力にもよるのだろうが、再び冠水する危険性の高いことが想定できるのだ。
 東京大洪水では甚大な被害が出た牛込地域だが、当時は江戸川と呼ばれていた神田川の関口から大曲(おおまがり)一帯が大きく浸水している。もともと室町期まで、奥東京湾の名残りとみられる大きな白鳥池Click!があったあたりの谷間だ。また、江戸期に開拓された早稲田田圃Click!と呼ばれる湿地帯も近い。その名のとおり、大曲は川の流れが急激にカーブを描いている地点なので、江戸期から洪水が起きやすい地勢なのだろう。のちの関東大震災でも、大曲一帯は大きな地割れや地面の陥没により、道路や市電の線路が壊滅的な被害を受けている。


 先ごろ、タイのバンコクで起きた都会を飲みこむ大洪水だが、東京の市街地でも決して“他所事”や例外ではないのだ。かろうじて保存された、いまに伝わる当時の貴重な資料類が、これから再び起きるかもしれない惨事の危険性をハッキリと警告してくれている。

◆写真上:江戸川(現・神田川)の石切橋の惨状で、洪水の流れがかなり速いのがわかる。
◆写真中上:上は、江戸川(現・神田川)の大曲付近から上流の江戸川橋方面を向いて眺めたところ。下は、当時は東京市電の終点のひとつだった大曲停留所あたりの被害。
◆写真中下:上は、大川(隅田川)の本所・大川端あたりの惨状だが、もはや道路なのか川なのかも判然としない状況になっている。下は、日本橋浜町で前方に見えているのは大橋(両国橋)。
◆写真下:上は、大川(隅田川)の大川橋(吾妻橋)周辺の浸水で右手はサッポロビール工場。下は、洪水で護岸や堤防が削られて流出する六郷川(多摩川)沿いの住宅。