読売新聞が「怪盗ルパン二世」事件Click!を報じたのは、1946年(昭和21)6月20日と朝日新聞に比べ17日もあとのことだ。しかも、読売新聞では犯人がすべて仮名報道となっている。犯人の中に16歳の少年が混じっていたためか、それとも人を傷つけないで「仕事」をしており、どこかユーモラスな犯人像に憐憫の情がわいたのか、当初は記事の書き方に配慮したものと思っていたのだが、読売はこの時期、社会面に載せる犯人の名前はほとんどが仮名扱いとなっている。おそらく、警備不十分な新聞社への報復を怖れていたのではないか。
 報道が遅いのは、強盗団の全貌が明らかとなり、事件の関係者14名がすべて検挙されるのを待っていたようにも思える。同年6月20日の記事を、全文引用してみよう。
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 和製ルパン五人組/一味検挙・被害百万円
 稀代の怪盗ルパンをまね、脅迫状をつきつけて東京を荒し廻ついてゐた和製ルパン五人組があつけなくも十八日戸塚署に検挙された、門田常二(二二) 高橋進(二一) 佐藤義夫(二二) 富田正作(二一) 原次郎(二五)=いづ<ママ>れも仮名、住所不定=で映画もどきに侵入前に投書で予告し犯行をつゞけてゐたもので、去る五月廿八日淀橋区下落合四の一九八〇著述業佐々木展雄さん方へ『今夜お伺ひする、ルパンより』と書いた紙片を投げ込み、つゞいて去る二日夜八時ごろ同家へ五人連れで玄関から侵入、ピストルをつきつけ/『おれたちはルパンだ、お約束のものを貰ひにきた』/と凄文句をならべ家人全部を縛りあげ、悠々と家内を物色、現金、洋服、写真機など時価二万円にのぼる金品を強奪逃走、これを手はじめに同じ方法で都内各所を荒し廻つてゐたがさすがのルパンも悪運つきて去る三日同区下落合四の二一四七八木鈴さん方へいつもの紙片を投げ込み、十六日同家へ侵入しようとしたところを張込み中にの刑事<ママ>富田がまづ<ママ>逮捕され、その後いもづる式に一味五人が検挙となつたもの、同署では目下厳重取調べ中であるがすでに自供した犯行だけでも五十数件、約百万円にのぼる見込み/なほこのほかまだルパンに推参され届出のない家庭も相当あるとみられてゐる (<>内は引用者註)
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 この記事で、「今夜お伺ひする、ルパンより」と予告状を受けとったのが、下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の佐々木邸と、下落合4丁目2147番地(同前)の八木邸だったのがわかる。佐々木邸は、佐伯祐三Click!が『下落合風景』Click!を描くために蘭塔坂(二ノ坂)上へイーゼルを立てた現場Click!の、まさに画面の左手(東側)枠外の敷地にあたる邸だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、比較的大きな邸宅だったのがわかる。下落合4丁目(現・中井2丁目)の全域は、ほとんど戦時中に空襲の被害を受けておらず、戦後も大正期から昭和初期の家々が建ち並ぶ、緑の多い閑静な住宅街だった。一方、八木邸は七ノ坂の中腹にある大正期に建てられた邸で、下落合4丁目2147番地へと地番変更になる前の「火保図」では2151番地となっている。
 いずれの邸も、オシャレな西洋館か和洋折衷の住宅だったのではないかと思われる。つまり、「怪盗ルパン二世」一味は、中井駅の北側に拡がるアビラ村(芸術村)Click!の住宅街をつれづれ下見しながら、予告状を投げこむ邸宅を物色していたことになる。でも、根っからのドジな「怪盗ルパン二世」は、予告状を投げこんだ八木邸へ、ちゃんとお約束どおり律儀に侵入しようとして、待ちかまえていた警官隊にまず一味のひとりが逮捕され、次々と実行犯の5人が捕まってしまった。引きつづき、6月20日までの間に従犯を含めた全員が検挙されている。
 読売と朝日の記事を比較すると、両紙の間で時系列的な齟齬が生じている。朝日では、6月2日までに主犯の男5人+従犯らしい女ひとりが逮捕されたと、翌3日に実名で報道されているのに対し、読売では6月16日に八木邸へ侵入しようとした主犯のひとりが逮捕され、のちに一味5人が検挙されたことになっている。逮捕される前に主犯格5人の実名がわかるはずはないので、明らかに読売の記事に書かれた日にちがおかしいことになる。これは、犯人一味が東京地検へ送検された日にちを、逮捕日と勘違いして記述したのではないだろうか?
 
 
 読売の記者は、「怪盗ルパン二世」をどこかユーモラスに描こうとしたフシが見えるのだが、当時の新聞には殺人を含む凄惨な強盗事件が、連日にわたり掲載されていた。たとえば、同年6月9日の読売新聞には、新宿を中心とする住所不定の不良少年10人組が西大久保や中野の住宅へ日本刀を手に押し入り、一家をメッタ斬りにして金品を強奪する事件が起きている。まるで、江戸期の押込盗賊のような仕業だが、このような凄惨で救いようのない事件に比べれば、ドジでオマヌケな「怪盗ルパン二世」一味はまだかわいげのあるマシな事件のように思えたのだろう。
 読売新聞ついでに、面白い記事のコピーをいただいたのでオマケにご紹介したい。新宿中村屋が金庫破りにねらわれた記事で、戦後ではなく戦前の1937年(昭和12)3月1日夜半に起きた事件だ。破られた金庫の写真がデカデカと掲載された、同年3月2日の記事から引用してみよう。
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 新宿・深夜の怪犯行/中村屋の金庫破り
 一階大金庫に失敗、更に地下室で/一千四百余円を奪ふ
 一日朝七時半ごろ淀橋区角筈一ノ一二中村屋菓子店(経営者相馬愛蔵氏)で女店員星眞木子(三二)さんが出勤すると同店地下室の金庫の扉がヤスリで破壊され前夜同金庫にしまつた売上金一千四百廿九円がそつくり盗まれてゐた、淀橋署では新宿目貫きの場所の大胆な犯行に驚き係官が現場にかけつけて調べてゐるが、賊は店内はいたるところ荒し廻つてゐる形跡があり、一階の帳場にある一万五千円入りの金庫も破りかけたらしく錠前は壊されてゐるが幸ひ頑丈たので盗まれなかつた、破られた金庫は書類金庫で幅が三尺、高さ四尺五寸であるが薄い鉄板なので簡単に破られたものらしい、(以下略)
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 メインの金庫は無事だったらしいが、前日の売上げを収めた書類金庫が破られている。「山手銀座通り」(新宿通り)に面した大店をねらった、こちらのほうがよほど「怪盗ルパン」っぽいのだけれど、相馬愛蔵Click!・黒光Click!夫妻のもとへは、どうやら予告状はとどかなかったようだ。ちなみに、この時期の中村屋は、従業員200名余を数える新宿の大店へと成長していた。

◆写真上:2005年(平成17)にポプラ社から出版された、『ルパンの大失敗』の表紙イラスト。
◆写真中上:1946年(昭和21)6月20日の読売新聞から、「怪盗ルパン」一味逮捕の記事。
◆写真中下:上左は、旧・下落合4丁目1980番地の佐々木邸界隈。右側が佐々木邸跡で、道を進んだ左側が徳川義忠邸跡。上右は、旧・下落合4丁目2147番地の八木邸界隈。中ノ道へと下る、七ノ坂の中腹左手が当時の八木邸跡。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる佐々木邸と八木邸。八木邸は当時、2147番地ではなく2151番地として採取されている。
◆写真下:左は、1946年(昭和21)6月9日の読売新聞から、新宿周辺を荒しまわる日本刀を持った少年10人組による凄惨な強盗事件記事。右は、1937年(昭和12)3月2日の読売新聞から、新宿中村屋の金庫破り事件記事。写真は、ヤスリで破られたロッカー状の書類金庫。