高田町(現・目白)の四ツ家Click!の先に、明治時代の地図から「金山(かなやま)」という小字を見つけていた。そこには、金川(かながわ)が流れていて隣接する南西側の一帯は「目白」と呼ばれていた。現在の目白駅から、東へ1,000mほどいったエリアで、鬼子母神が出現した「清土(せいど)」のごく近くだ。これだけ、“らしい”地名がそろっている場所は少ないので、必ず大鍛冶小鍛冶に関連のある工房、あるいは人物が住んでいただろうとあたりをつけていたのだが、先日、『高田村誌』を読んでいたら、ようやく刀鍛冶(小鍛冶)がいたことが判明した。
 もともと高田地域は「金」の付く地名が多いが、これは「黄金(こがね)」のことではなく、中世以前から表現されている金属用語としての“鉄(かね)”のことだ。鉄を制する者が、武器や農具などを大量に生産でき、豊かな経済基盤をもとに勢力を伸ばせる時代が、弥生時代からずいぶん長くつづいた。「金山」といえば、山砂鉄あるいは川砂鉄が湧く丘陵のことであり、「金川」といえば川砂鉄がカンナ流しClick!によって採取できる渓流のことだ。そして、「目白」はタタラ製鉄(大鍛冶)によって精錬された“鋼(はがね)”の古語であり、江戸期まで刀鍛冶の間でつかわれていた用語でもある。ちなみに、目白にある「金川」は、埋め立てられてしまった弦巻川の古名だろうか。
 わたしは刀剣Click!が好きなので、日本各地の地名と古代から中世にかけての大鍛冶小鍛冶との関連を調べてきたけれど、これほどみごとにセットになった地名は全国的にもめずらしい。しかも、時代や流派まで特定できる、刀鍛冶の氏名までが判明しているケースもまれだ。目白の金山に住んでいたのは関東の石堂(いしどう)、すなわち江戸期に入ると新刀Click!から幕末の新々刀Click!にいたる石堂派を形成し、石堂是一(これかず)や石堂運寿是一(9代)らを輩出した備前伝(「伝」は刀の造り方)の一派だ。金山に工房をかまえていたのは、『高田村誌』によれば元亀(1570~1573年)ごろの室町後期だが、それ以前から関東へとやってきていたのだろう。
 石堂派は、もともと近江(滋賀)の石堂村から分岐し、室町期から江戸期にかけて全国へ散っていった刀鍛冶の一派だが、関東では明治期にいたるまでの400年間、相対的に目立たず地味な刀工集団だった。余談だけれど、江戸期の延宝年間(1673~1681年)ごろに活躍した、もっとも有名な石堂武蔵大掾是一は、鎌倉期の備前一文字派のような鎌倉古作を思わせる刀を数多く焼いているが、のちに茎(なかご)の石堂是一の銘を丸ごと消されて、備前一文字作に化けた作品が多数存在するといわれており、刀剣界では要注意の課題となっている。
 関東では鎌倉期から、正宗や貞宗を生んだ相州伝が東日本の武家全体に浸透し、室町後期からはその作品が全国的に人気を博していくので、室町以降の昔ながらの備前伝を焼いていたと思われる関東石堂派は、あまり流行らなかったのではないかと想像できる。でも、室町後期から末期(ちなみに「戦国時代」という時代区分は刀剣史には存在しない)に入ると、中国や朝鮮では日本刀の人気が沸騰し、西日本では良質な砂鉄が近くで採取できる備前鍛冶(岡山)、あるいは三原鍛冶(広島)を中心に、数十万振りといわれる膨大な量の日本刀が両国へ輸出されたと伝えられている。また、室町末期に国内の戦乱が激しくなってくると、美濃鍛冶(岐阜)や備前鍛冶はきわめて戦闘用で実用本位な刀を造りはじめ、中には「数打ちもの」と呼ばれた大量生産品、すぐにしなえ(曲がり)や刃切れが生じたり折れたりする、鋼の鍛錬も焼きも足りない粗悪品が数多く流通するようになる。
 
 
 そのような時代状況の中で、目白の金山に住んでいた石堂工房では、どのような作刀が行われていたのだろうか? 石堂孫左衛門について、1919年(大正8)の『高田村誌』から引用してみよう。
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 金山稲荷 / 雑司谷金山の東にあり元亀年間此所の刀鍛冶石堂孫左衛門宅地にて稲荷を安置し常に刀剣の妙を祈念す、老て其所に入定すと言伝ふ、然るに文化の頃此地を開墾せし折一個の石櫃を掘得、蓋を退けて閲するに帽子装束せし故骨全体具足して生るゝが如く暫時にして崩れたり、是なん石堂氏入定の故骨なりと言ふ。
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 荒々しいチケイや金筋、銀砂を散らしたような錵(にえ)を見せ、抜群の斬れ味を誇る日本刀の代名詞のような鎌倉の相州伝による作品群を前に、室町期の関東石堂派は備前伝へどのような工夫をほどこしたのだろう? 備前伝の古作が備えた特徴は、丁子(ちょうじ)乱れや互(ぐ)ノ目混じり乱刃(らんば)の繊細で華々しい、どちらかといえば貴族趣味っぽい刀を焼いてきた。でも、関東ではそのような景色(刀剣美)は好まれず、人気がなかったのではなかろうか。あるいは、美術品としての鑑賞刀に徹し、関東のニッチな備前伝ファンの武家のために、江戸の石堂武蔵大掾是一がそうしたように、古来からの徹底した伝法を再現し守りつづけたのだろうか?
 室町の最末期から江戸期に入り、砂鉄から手間ヒマかけて鋼を精錬するタタラが廃れ、鉄鉱石による大量生産の鋼が輸入されるようになると、刀の質が大きく変わり新刀の時代を迎える。それまで、関東各地にいたと思われる石堂派は江戸市街に集まり、代々石堂是一を襲名するようになった。江戸後期に、上州館林の秋元藩中屋敷で水心子正秀Click!が新々刀を唱え、砂鉄タタラの復興と、古来からの作刀技術への回帰を提唱しはじめると、石堂派も新々刀へ取り組み、古(いにしえ)の備前伝再現へ注力しはじめている。江戸期を通じて、地味な存在の石堂一派だが、幕末に石堂運寿是一を輩出したことで刀剣史の最後を飾る仕事を残している。
 幕末の運寿是一は、備前伝へ相州伝のような美しい錵(にえ)を表現して人気が高かった、室町初期の刀工・備前兼光の造りを強く意識し、相州伝に備前伝を抱合したような作風で高い人気を誇った。これらの作品は、「兼光写し」あるいは「相伝備前」と呼ばれて運寿是一の特徴となっている。

 
 
 目白の石堂工房は、敷地内に「金山稲荷」を奉っているが、これは同じ高田村(現・目白)の金久保沢Click!にある豊坂稲荷Click!と同様、江戸期が近づくにつれ農業神へと変貌していく「稲荷」ではなく、それ以前の産鉄神として奉られた本来の「鋳成」神の姿だろう。町場では開運厄除けの神として、農村では凶作除けの神として、江戸期には大量に勧請された稲荷なのだが、田畑や街中ではなく丘陵の斜面や谷間、湧水源などに奉られた社は、古くからのいわれや伝承がもはや失われた「鋳成」神の転化をまず疑いたい。また、そのような立地の稲荷は、多くの場合「弁天」あるいは「市杵嶋姫」を同時に奉っているケースも多い。目白の金山稲荷は、「金(かね)」地名と鋳成(稲荷)、そして小鍛冶工房の存在と、3拍子揃った江戸東京でもめずらしいケースだ。
 金山稲荷は、石堂工房の移転とともに江戸期には廃社となってしまったようだが、不思議なことに明治から大正期の地図には再び復活して、鳥居マークが地図類に収録されている。当時、「金山稲荷」の存在を知った地元の有志たちが、稲荷社を再興して社殿を建立しているのかもしれない。でも、戦後になると再び廃社となり、現在では社殿跡さえ残っていない。
 金山稲荷の経緯は、これでおしまいではなかった。昭和に入り、地元で新たな資料が発見されて、元文年間(1736~1740年)に金山稲荷跡の斜面(現・日本女子大付属寮)が崩れ、鎌倉期のやぐらが発見されている。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』には、元・石堂工房のあった敷地裏の崖から、鎌倉時代のやぐらClick!(おもに鎌倉武士の横穴式墓地)が発見され、しかも棺の中から人骨とともに新藤五國光(鎌倉の相州伝鍛冶の実質的な創始者)の短刀が、副葬品として見つかったことが記載されている。國光作の短刀が出土する経緯を、同町史のから引用してみよう。
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 金山稲荷社(無格社) 雑司谷三百三十四番地(新町名/雑司谷町一丁目) / (前略) この神社の西方に断崖があり、元文年中に崩れたが、其処の横穴の中は二段となり、上の段には骸骨又は國光の短刀があつた。其の短刀は戸張平次左衛門の家に伝来すると云はれ、下段の穴には、骸骨のみあり、刀はなかつたと称へらる。文化年間、この地を開墾し、一の石櫃を掘り出し、蓋を開きたるに、烏帽子装束の古骨であつた。之は石堂氏の遺骸であらうと口碑に残つて居る。
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 これは、鎌倉期からこの地に有力な武家、ないしは大鍛冶小鍛冶に関連したなんらかの集団が住みつづけており、しかも当時から貴重で高額だったと思われる國光の短刀を所有し、副葬品として惜しげもなく埋葬できるほどの富と勢力を誇っていたことが想定できる。國光は正宗の師匠筋にあたり、出土した短刀の状態がよく、研磨が十分にできて保存されたとすると、今日では見つかればすぐにも“国宝”に指定される作品だ。彫刻の世界でいえば、同じ鎌倉期の運慶作の仏像が発見されたほどのインパクトだろう。この短刀が、現在どこに収蔵されているのかは残念ながら不明だ。



 『高田村誌』には、地名などにルビがふられているケースが目立ち、とても興味深い記述も多い。目白や下落合では、古くから「きよとみち」と呼ばれることが多い清戸道Click!(ほぼ現在の目白通り)だが、『高田村誌』では一貫して「せいどどう」と発音されている。想像していたとおり、やはり清戸は「せいど」なのだ。鬼子母神の出現地である清土(せいど)ともども、本来は方言で濁らず「せいと」ではないか。古来から、この道沿いに「せいとばれえ」(江戸方言=どんど焼きClick!)と呼ばれる正月の厄払い火祭りが行われていた祭域(聖域)を貫く通り、それが「清戸道」だったのではないか?

◆写真上:金山の麓にある、おそらく大正期と思われる美しい和洋折衷住宅の和館部。
◆写真中上:上左は、「今昔散歩重ね地図」(ジャピール)で江戸期と明治期の金山界隈を透過した地図。上右は、1910年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる復活した金山稲荷。下左は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる金山界隈。下右は、宅地造成中の金山の崖線で、画面の右手にむき出しになった崖の中腹に金山稲荷が建立されていたと思われる。
◆写真中下:上と中左は、同じく宅地造成中の金山崖線で上に見えている建物が日本女子大の寮。中右は、冒頭に掲載した和洋折衷住宅の洋館部。下左は、金山の東側斜面を通う坂道で右手が日本女子大寮。下右は、金山稲荷跡の斜面下にある「サンカ小説」で有名な旧・三角寛邸。
◆写真下:上は、鎌倉中期の備前一文字派(片山一文字)の代表刀工・則房が焼いた丁子乱れ。中は、いまでも新々刀では人気が高い幕末の刀工・石堂運寿是一の銘。下は、石堂運寿是一が焼いた刀の丁子刃。匂(におい)本位が主流だった一文字派の古い備前伝とは、もはや似ても似つかない豪壮な荒錵(あらにえ)がつき、人気の相州伝を取り入れた鎌倉期の備前兼光を想起させる刃文だ。すでに相州伝の範疇に入る、いわゆる「相伝備前」と呼ばれる典型作。