目白駅の近くにある尾州徳川邸Click!(現・徳川黎明会Click!)の大きな西洋館は、1934年(昭和9)に竣工しているので、目白・落合地域では比較的新しい西洋館だ。それ以前の同敷地には、巨大な戸田子爵邸Click!が建っていた。この戸田邸の部材の一部を移築して、下落合に建設された秋山邸Click!については、以前にこちらでも何度かご紹介している。
 でも、これまでかんじんの戸田邸については、どのような館の姿をしていたのかがまったくつかめなかった。参謀本部の陸地測量隊が作成した1/10,000地形図や、1926年(大正15)制作の「高田町北部住宅明細図」などで、かろうじてその姿を想像するだけだったので、1908年(明治41)に建設された戸田邸の写真はわたしの“指名手配”フォトのひとつになっていた。現在、戸田邸の痕跡をしめすものとしては、徳川黎明会の敷地西側にある正門並びの道路端に、まるで3等三角点のような、小さな記念碑がポツンと残されているにすぎない。
 落合地域中心の資料調べをしているので、なかなか豊島区側の資料を細かくあたる機会が少ないのだが、わたしが『高田町史』(1933年)を持っているのをご存じのある方から、「これは、まだお持ちじゃないでしょう?」とプレゼントされたのが、1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』(高田村誌編纂所)だった。(ほんとうに、ありがとうございました。<(__)>)
 『高田村誌』が成立したのは、下落合に中村彝Click!がアトリエを建てて引っ越してきてから、わずか3年後のことであり、目白地域の当時の貴重な写真類とともに、かけがえのない資料となっている。しかも、300ページ弱ある同誌の4分の1が、目白通り(高田大通りClick!)沿いなどに開店していた商店や企業、事務所、養蜂場、医院、東京牧場Click!、旧・神田上水沿いの工場や研究所、実験場などの広告にあてられており、写真が掲載されているものもある。これらの情報は、地域の物語を掘り起こす願ってもない1次資料となるだろう。余談だけれど、『落合村誌』もどこかに必ず残っているにちがいないと思うのだが、いまだお目にかかれないでいる。
 その『高田村誌』の冒頭写真集に、いままで一度も目にすることができなかった戸田邸の一部が紹介されている。それは、戸田邸の母屋ではなく、庭園に造成されたとみられる巨大な温室の写真だった。しかも、同邸の温室写真が外観と内部との2枚掲載されており、かんじんの母屋の写真が撮影されていない。ただし、温室の両端にはおそらく専属の庭師たちが生活していたとみられる建屋が2棟建設されており、ハーフティンバー仕様にレンガを用いた外観から、おそらく戸田邸母屋のデザインと親和性の高い意匠を、同建物にも採用しているのではないかと思われる。母屋が撮影されなかったのは、戸田邸側のなんらかの事情があったものだろうか。

 先の1/10,000地形図に採取された母屋の形状から考えると、同邸は1934年(昭和9)に建設される徳川邸よりも、はるかに巨大な西洋館だったのではないかとみられる。『高田村誌』に記された平安時代からの流れを解説する、戸田邸の仰々しい紹介文を引用してみよう。
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 戸田家は藤原姓にして始祖弾正左衛門宗光は正親町三條家より出で三河国に下り同国上野城主となり戸田氏を称し徳川氏の祖松平和泉入道信光の女を娶り爾来徳川氏と共に三河の反乱を鎮定し、文明年中同国渥美郡大津城に移り、又田原城を築き上野、大津及知多郡河和富貴等の諸城を兼有す、後二連木城(今の豊橋市内)を築き、勢威東三河に振ふ、八世の孫丹波守康長に至り徳川家康の異父妹を娶り松平氏を称す、天正中家康に属して長篠、小牧山、長久手等の戦役に従い功あり、小田原の役には先陣として房総方面の敵を降す、家康関東に遷るの時武州当方に封ぜられ、後下総古河に転じ又常陸笠間に移る、大阪両度の役には子忠光と共に軍に従ひ奮戦功あり、元和偃武の後上州高崎を経て信州松本城主となり七万石を食む、爾来封を移すこと数所、第十三世丹波守光慈享保中志州鳥羽より再び信州松本に移り子孫相承け明治維新に及べり、第二十一世丹波守光則藩籍を奉還し東京に移住し、江戸呉服橋内の藩邸を献じて両国矢の倉の邸に居る、子従三位子爵戸田康泰は即ち今の子爵康保氏の父なり、府下渋谷村上渋谷に邸宅を営造中陸軍練兵場用地となりしを以て明治四十一年本村に移る、雑司ヶ谷旭出四十一番地の本邸是なり、此邸地は維新前は小出信濃守の邸ありし所なり、邸に接して一万数千坪の貸地あり、福島男爵、澤柳博士其他名流の邸宅多く茲に在り。
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 江戸幕府が成立後、徳川家とは姻戚関係にあった戸田家は、幕府の軍事的にも政治的にも重要な要所要所を押さえる、典型的な「転勤族」大名だったことがわかる。
 明治維新のあとも、せっかく渋谷村上渋谷(現・NHK敷地とその周辺)に邸を建設していたら、陸軍から練兵場にするのでどいてくれと言われ、しかたなく高田村雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地/現・目白3丁目)へ造りかけの邸を解体して移ってきた、転居馴れした子爵だったようだ。
 1933年(昭和8)に『高田町史』が編纂される3年前、戸田家は下落合への引っ越しを計画しているのだが、下落合のどこへ転居したのかが不明だ。巨大な西洋館は移築されず、解体されて高級な部材が別の建築へ活用されているようなので、まったく新しい邸を建てているのかもしれない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』には、戸田家のことがまったく触れられていないし、その後のさまざまな地元資料にも登場していないので、戸田家は下落合への転居をなんらかの事情で中止し、ほかの地域へ引っ越している可能性もありそうだ。
 1933年(昭和8)に出版された『高田町史』の、「高田に縁故ある人物」から引用してみよう。なお、戸田邸が目白へ引っ越してきた時期について、『高田村誌』は「明治41年」としているのに対し、『高田町史』は「明治36年頃」としており、同一地域の資料にもかかわらず齟齬が生じている。
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 戸田康保
 旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司ヶ谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した、子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
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 長崎地域に居住した多くの画家たちの中に、戸田邸の巨大な西洋館をスケッチした画家がひとりぐらいいそうなものだが、残念ながらいまだに発見できないでいる。付近の風景をよくモチーフに選んでいた、牧野虎雄Click!や春日部たすくClick!、田中佐一郎などの作品にありそうなのだが・・・。

◆写真上:戸田康保邸の母屋が建っていたあたりの現状。
◆写真中上:戸田邸の大温室で、左右に見えている洋館は庭師たちの住まいと思われる。
◆写真中下:左は、1921年(大正9)作成の1/10,000地形図にみる戸田邸で、母屋西側に見える建物が温室か? 右は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる戸田邸。
◆写真下:左は、戸田邸温室内部の様子。右は、1926年(昭和元)制作の田中佐一郎『立教』。