関東大震災Click!で一時的に名古屋へもどっていた松下春雄Click!は、1924年(大正13)から翌1925年(大正14)にかけて、西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方に下宿していた。少し離れた銭湯「大原湯」の斜向かいには、のちに夫人となる渡辺淑子の住んでいる渡辺医院が開業していた。渡辺医院は、西巣鴨町池袋大原1464番地の角地にあり、当時の立教中学校のすぐ西南側にあたるエリアだ。最寄駅は、1929年(昭和4)より武蔵野鉄道Click!の池袋駅からひとつめの上屋敷駅であり、近くには宮崎滔天(とうてん)Click!・宮崎龍介Click!の邸宅や、東京美術学校において刑部人Click!の同期生である斎田捷三邸Click!などがあった。松下春雄と渡辺淑子は恋愛結婚であり、ふたりが出逢ったのは当時の上屋敷(あがりやしき)地域だったと思われる。
 きょうの記事は、松下春雄と渡辺淑子がどのようにして、上屋敷界隈(のち豊島区池袋3丁目)で出逢ったのかを想像する、とても楽しいテーマだ。淑子夫人の自宅である渡辺医院と松下春雄の下宿とは、直線距離でわずか100mほどしか離れていない。したがって、道ですれちがった松下が初めて渡辺淑子を見染め、そのあとをついていって渡辺医院の息女であるのを突きとめた・・・という非常に単純な出逢いも想定できるのだけれど、それでは松下春雄がまるでストーカーみたいになってしまうので、もう少し想像の幅を拡げてみたい。
 渡辺淑子の妹は、近くの自由学園(現・自由学園明日館Click!)に通学していた。その体育祭の日、彼女が自宅から妹の応援に出かけると、そこにはスケッチブックを手にした松下春雄がいた。彼は、妹の応援をする淑子夫人のことがだんだんと気になりだし、ついに思いきって声をかけたのが出逢いだった・・・というケースも考えられる。当時、自由学園の体育授業では、学園の柵の前に見物人Click!が絶えなかった。なぜなら、大勢の少女たちが短パン姿で体操をする様子は、それまでの女子教育では想像もつかない光景であり、わざわざ遠くから見物に訪れる男たちもいたからだ。・・・と、この想定も、松下春雄がスケッチブックを片手に自由学園へ通っていた、そんな男たちのひとりのようになってしまってマズイので、別の出逢いを想定してみよう。(汗)
 松下春雄が下宿していた、池袋大原1382番地の横井方からもっとも近い銭湯は、わずか20mほどしか離れていない朝日湯だった。しかし、なんらかの都合で朝日湯が休業したため、松下は渡辺医院の斜向かいにあった大原湯へと出かけていった。そのとき、たまたま活花のお稽古から帰ってきた渡辺淑子が渡辺医院へ入っていくのを見かけ、それ以来、朝日湯へ通うのをまったくやめてしまい、大原湯ばかりに出かけるようになった。やがて、大原湯の前で涼んでいると美しい彼女が通りかかったので、松下はついに勇気を出して声をかけた・・・というのはいかがだろうか?

 
 でも、渡辺医院へと入っていく淑子夫人の姿を認めたとき、最初から渡辺医院の息女だとはハッキリ規定できなかっただろう。初めは、同医院の看護婦のひとりではないか?・・・と思ったかもしれない。だとすれば、なにかの病気になりさえすれば渡辺医院へ通えるので、看護婦かもしれない彼女と頻繁に逢えると考えたとしても不自然ではない。だから、ちょっとした風邪を引いた松下は、さっそく渡辺医院へいそいそと出かけて診察を受けた。でも、看護婦の中にあこがれの彼女の姿は見えなかった。担当の看護婦にそれとなく訊いてみると、ようやく渡辺医院の娘であることが判明し、勇を鼓して「おつきあいさせてください」と、父親の渡辺濟(すくう)医師へ頼みこんだ。
 また、渡辺医院への通院はこういう想定も可能だ。寒い冬の午後、まだ明るいうちに大原湯へと出かけた松下は、すでに近所で見染めていた彼女が姿を見せるのを、銭湯の外でいまかいまかとガタガタ震えながら待っていた。でも、「♪待~てど暮~らせど来ぬ女(ひと)を~」と口ずさみながら立ちつづけても、渡辺淑子は現れなかった。帰宅後、松下は下宿で高熱をだして倒れ、大家の横井家の人々に渡辺医院へ担ぎこまれた・・・という経緯も想定できる。
 同医院へ通いつづける松下を、やがて淑子夫人も見染めて、ふたりはついに相思相愛の関係になった・・・というのは、まるで、「あれは満州事変の前、大正が昭和に変わろうとする慌ただしいころの出来事でした」と、ピアノのメロディに重ね黒柳徹子のナレーションではじまる、久世光彦演出の向田邦子Click!ドラマのシチュエーションのようだけれど、まったくあり得ない想定でもなさそうだ。
 
 
 松下春雄の長女・彩子様のお話によれば、両親がどのような出逢いで恋愛結婚をしたのか、その経緯を子どもたちへ詳しく話してはくれなかったそうだ。おそらく、松下が上屋敷に下宿していたころの出逢いであったのは、まずまちがいがないだろう。当時は世の中の通例として、生活が不安定な画家と娘を進んで結婚させたがる親など、おそらくほとんど存在しなかったと思われる。淑子夫人の両親も、最初は猛反対したかもしれない。でも、精神面で非常に芯が強かった淑子夫人は、そんな両親を説き伏せて松下春雄と結婚しているようにも思える。
 松下春雄は、1925年(大正14)に上屋敷から下落合1445番地の鎌田方Click!へと引っ越している。このときは、すでに淑子夫人と恋愛関係にあったのだろう。そして、3年後の1928年(昭和3)4月6日にふたりは結婚している。出逢いから結婚するまでの3年間、ふたりは渡辺家の両親を説得しつづけていたのではないか。ひょっとすると、渡辺家の両親は娘の生活や行く末が心配で、松下春雄にある条件を提示しやしなかっただろうか? それは、当時もっともアカデミックな帝展へ安定的に入選できるようになったら、「あんたに娘を嫁がせてもいい」というような「出世」条件だ。松下春雄は、1924年(大正13)の第5回帝展入選を皮切りに、水彩から油彩への転向後も毎年入選や特選を繰り返していく。そこには、淑子夫人への思慕が強く重なっていたのではないか。
 松下春雄の急逝後Click!、淑子夫人と子どもたちは西落合の自宅とアトリエを柳瀬正夢Click!一家に貸し、上屋敷の実家へともどっている。その後、渡辺医院は建物疎開Click!の道筋にひっかかって解体されてしまい、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!ではあたり一帯が焼け野原になったようだ。しかし、それ以前に、淑子夫人と家族は西落合の自宅兼アトリエへともどっており、大正期から昭和初期に撮影された松下春雄の貴重なアルバム写真も焼失をまぬがれている。
 
 先日、新宿歴史博物館Click!の学芸員の方とともに山本ご夫妻Click!をお訪ねし、貴重な写真類が貼付されたアルバムを数冊お貸しいただいた。もしよい機会があれば、西落合1丁目306番地(柳瀬正夢アトリエの時代は303番地)に建てられた松下春雄アトリエの姿と、昭和初期の西落合周辺の様子を紹介する写真展、あるいは同博物館に収蔵されている松下春雄『下落合文化村入口』Click!(1925年)など作品類のご紹介とともに、展覧会を開いていただければうれしいのだが。

◆写真上:西巣鴨町池袋大原1464番地に建っていた、淑子夫人の実家・渡辺医院跡の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「西巣鴨町西部事情明細図」にみる渡辺医院と、松下春雄が下宿していた池袋大原1382番地の位置関係。下左は、1933年(昭和8)に制作された「大東京市各区便益明細図」にみる渡辺医院。名前の上に赤文字で「イ」とあるのは、「医院」の略号。下右は、渡辺医院がある十字路の斜向かいにあった「大原湯」跡の現状。
◆写真中下:上左は、渡辺家の庭で撮られたとみられる少女時代の渡辺淑子。上右は、1928年(昭和3)4月6日に行われたふたりの挙式。下左は、池袋大原1382番地にあった松下春雄下宿跡の現状。下右は、松下の下宿に通じる道筋で写真背後に渡辺家へと通じる南北道が走っている。
◆写真下:1937年(昭和12)に作成された「火保図」にみる、渡辺医院(左)と松下春雄の下宿跡(右)。当時の住所は、それぞれ池袋3丁目1464番地と池袋3丁目1382番地に変更されている。